ムスハフ解釈本

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『ムスハフ解釈本』(ムスハフかいしゃくぼん)とは、イスラーム教徒ではない異教徒の手により外国語に翻訳された、本文のみのムスハフのことである。本文に加えて、注釈解説が含まれているムスハフについて、これをどう呼ぶかについては、はっきりとしていない[1] 。異教徒の読者にとって、ムスハフの翻訳本を読むためには、訳者による注釈や解説は、不可欠なものであると言える。そのため、異教徒が「ムスハフ解釈本」と呼ぶ場合、注釈や解説もついた本と考えたほうが良いようである。

概要[編集]

異教徒の世界においてクルアーンと呼ばれている、冊子本となった宗教書は、イスラーム教徒にとっては、本来のクルアーンではないとされている。イスラーム教徒にとって、クルアーンそのものというのは、「クルアーンの読誦」の中にのみ、活きた形になるとされるためである。黙読もできる「本」の形を持ったクルアーン冊子本については、イスラーム教徒はこれを、ウスマーン版「ムスハフ」と分類している[2] [注 1]

イスラーム教では、アラビア語以外の言葉に、ムスハフを翻訳してはならないとする時代もあった[3]

ムスハフ解釈本で論じられていること[編集]

イスラーム世界(イスラームでない国)においては、ムスハフの翻訳本やその注釈書・解説などで、様々な議論がなされている。

クルアーン改ざん説[編集]

詳しくはウスマーン版ムスハフ (冊子本)の項目を参照

ウスマーン版ムスハフの完全性の教義の確立[編集]

詳しくはウスマーン版ムスハフ (冊子本)の項目を参照

ムスハフ解釈本についてのさまざまな立場での見解[編集]

イスラーム圏内では、現代においても、イスラム法学者によって、聖典を批判する者を、処刑したり、不信仰者として追放したりすることがある。イスラーム圏内では7世紀編纂された書物が不変の絶対的聖典とされている。国の憲法の基礎部分を、その古代の書物が固めているとされる国では、不適切な解釈や批判は、赦されないようだ。また、イスラーム法学者にとっては、不信仰者や、異教徒によるクルアーン解釈というものは、あってはならない背信行為とされている。そうしたこともあり、自国を追放された不信仰者は、イスラームの聖典や指導者に対する客観的・批判的議論を、異教徒の国において行うことになる。異教徒は、ムスハフ解釈本について、客観的・批判的議論を集積してゆく、という事態となっている。一般的な宗教書の時もあれば、絶対的聖典でもあるという面からすると、ムスハフ解釈本は、多面性を持った宗教書であるといえる。

イスラーム圏内における見解[編集]

メディナ時代の10年間において、イスラーム信者は、自分の周りに何か問題が起きると、それをムハンマドに相談することができた。そして、ムハンマドに相談するだけで、神様の方からそれに関する「啓示」が下されたとされる。その場合、信者は、別に改めて神にお伺いを立てなくても良かったと言われている。そして、そのお告げが、信者の問題に対する答えに該当していた、という現象が起きていた場合があったとされる。そのため、ムハンマドが生きていた間は、彼が生きた法典としての立場にあった。その後、神の啓示で、「何か問題があればムハンマドに聞け」という啓示があった。この啓示は、ムハンマドを立法者としての立場に立たせ、彼を王として決定づける方向に進んだ。

神の啓示の中には、「彼は最後の預言者である」とする言葉があり、彼が死んでしまうと、神の直接の啓示はもうない、という事態になってしまった。ムスハフが、絶対的聖典であり、否定することができないとされる理由とは、そのあとの人間の歴史において、神の預言者と、神の啓示は、もうないと信じられているためである[4][注 2]

絶対的聖典を否定できない社会、での見解[編集]

クルアーンの示す神の啓示に基づいて国を維持してゆくためには、クルアーンに含まれる矛盾をそのままにしておいたのでは、国家が成り立ってゆかないと言える。神の真理とされるクルアーンに矛盾があると感じるのは、その背信者の解釈の仕方が誤っている、とされている。クルアーンには誤りがないとか、預言者に誤りはないというのは、帝国となった後の為政者が決めたことである。[注 3]

詳しくはナスフの項目を参照。

第2代カリフのウマルは、学者によるクルアーンの解釈の違いからくるウンマの分裂について気を使っていたとされる。彼は、クルアーンの解釈に特に注意を払っていたようだ[5]

第3代カリフのウスマーンの時代に獲得した領地は、エジプトイスラエルをはるかに超えた広大なものであった[6]。 当時のウスマーンの立場は、現世的一大帝国の政治的指導者であり、新興国家の立法家でもあった[7]

絶対的聖典に基づく政治的制度を制定している

神の絶対的権威があるとするクルアーンを、イスラーム法学者は、聖典解釈の原理に基づいて、人間生活の一切を解釈していった。それは、彼らを中心に、政治的に進められてきた。イスラーム法学者は聖と俗の区別をつけないので、政治と法律もそのまま宗教となっている[8]

ウラマーとは、クルアーンとそれに関する学問を専門に研究する人のことである。その中でも、特に権威のある人たちは、ある「クルアーン」解釈が、許容範囲を逸脱しているとみなすと、法的手続きを踏んで、異端宣告をすることが出来る。その結果、「イスラームの敵」になった者は、死刑や、全財産没収等となる。イスラム圏内では、これまでに数多くの人が、そのために死刑になった、という歴史がある[9]

メッカ初期の教えとスーフィズムにおける見解[編集]

スーフィズムとは、個人的、実存的なイスラームであり、メッカ期の啓示の精神を原点として発展してきたものであると言える[10]

スーフィズム等の歩んできた「内面へのみち」というのは、だいたいにおいて、メッカ期のイスラーム信仰の系統であると言える。メッカ期のイスラームの特徴としては、人間の個人個人の宗教的実存の在り方に直面したものであった。罪を自覚した人間が、神の呼びかけに対して、どう応えてゆくかというものであった[11]

宇宙の内面的真理に通じていて、奇跡を行う能力を備えた人を聖者として信仰するスーフィズムもある。本来の自己存在がもともとは神と一体化したものであるということを知ることを目的として、霊性現成のために、内的に神と会えるように、修行をする。また、クルアーンには、2章109節や50章15節などに見れるように、「神が人間の内側に存在する性質もあること」を示す章句もある[12]

悟りの項目を参照

神の慈悲に基づく、現代的な見解[編集]

現代において、マララ・ユサフザイは、イスラーム教は平和の宗教であるとしている。彼女は、宗教という枠を越えた、世界規模での教育の普及を訴えている。彼女は教育を通して、ムハンマドやイエスやブッダから思いやりの心(慈悲の心)を学んだとしている。世界中の人々が、神の心の現れともいうべき「他を思いやる心で生きることができる」ように、教育の普及に向けた活動をしている [13]

ムスハフの啓示において、敵視されている宗教の見解[編集]

ユダヤ教の場合[編集]

ムハンマドの当時、ユダヤ教徒はムハンマドを預言者として認めなかった。その理由としては、ムハンマドの、ユダヤ教に関する啓示に問題があったことと、当時彼が九人の妻を持っていたことがあげられている。「結婚のことばかり考えている神の使徒というのは、ありえない」というのがユダヤ教徒の主張であったとされている[14]。しかし、聖書の間違いや重婚のことはムハンマドから出たことではなくて、メディナにおける神の啓示から発生した事態であると言える。そう見てくると、ユダヤ教徒とイスラーム教徒との関係悪化となった最初の原因とは、メディナ期における啓示の内容に問題があったことであると理解することが出来る。また、ムハンマドはメディナに移住するにあたって、アンサールだけではなく、同じ神を信じているユダヤ教徒からも、経済的な援助をしてもらえるものだと考えていたようである。神の啓示が、ユダヤ教とは違って行ったので、ムハンマドは、ユダヤ教徒から援助を受けられず、また、預言者としても認められないこととなった。そして、金銭的な問題が絡んでいたこともあり、ムハンマドとユダヤ教徒との事態の悪化は深刻となったようだ[15]

キリスト教圏の場合[編集]

ムスハフは、キリスト教圏では、偽りの本とラベル付けされている。 ムスハフでは、キリストは十字架では死んでおらず、身代わりの弟子が死んだ、という見解を啓示している。それらの見解は、神の自己認証だけを証拠として啓示されているので、虚偽の書と指摘される素地は、啓示自体の中にあるようだ。またそうした考え方は、ムハンマドの住んでいた地域には、異端的なキリスト教が広まっていたためだという解釈もなされている[16][注 4]。また、聖書の記述について下された啓示が、誤った歴史認識による、矛盾を含んだ真理として記録されていたケースがある。(三位一体を神、イエス、マリアとするなど)。

西洋には、イスラーム教との長い闘争の歴史がある。それは、十字軍の歴史でもある。12世紀のキリスト教徒は、ムハンマドは、彼の宗教を武力で強制したいかさま師であるとしました。また、彼らは、ムハンマドについて、彼は性的な倒錯者だ、という先入観を彼らの信者に植え付けたとされている。そのために、いまだに欧米人はムハンマドをそういった目で見てしまうとされている[18]


キリスト教の立場からすると、ムスハフは、過激派を生み出す悪しき宗教書と受けとめられている[18]

異教徒・多神教徒とされていた民族(日本など)における見解[編集]

神がかり宗教(「巫者を神が支配する宗教」)としての側面を持つ一神教

『クルアーン』の初期の啓示は、偶像崇拝や、聖石崇拝における砂漠の巫者特有の「啓示」の表現形式であるサジウ体で行われた。偶像崇拝や、聖石崇拝や多神教は、クルアーン以前から行われていた伝統的な砂漠の宗教である。クルアーン以前の巫者は最も下等な偶像崇拝である聖石崇拝を主に活動していたとする見解がある。ムハンマドの場合、神が啓示するというのは、神が預言者に憑依するという形式で行われることが多かった。その状態は、第三者から見ると偶像崇拝や聖石崇拝の巫者と大して変わりがなかったと言える。そのことから、一神教を掲げるムハンマドは、自分が聖石崇拝者と同類に見られることを嫌ったとされる[19]

メディナ時代に入ると、神の啓示は、旧約聖書に出てくるような内容を、「散文体」で啓示した。ムハンマドは、カアバ神殿で行われていた偶像崇拝の一部である聖石信仰と一神教習合したとも言える。メディナ時代の神は、偶像崇拝者を敵とみなしてはいる。しかし、当時のアラブの偶像崇拝の伝説をイスラームの土台に据えることによって、「絶対的一神教」と神がかり宗教(「巫者を神が支配する宗教」)との融合が図られたとする見解もある[20]。また、ムハンマドの宗教は、クライシュ族に信仰されていた宗教の一派の信仰を、拡張したものである、とする見解もある[21]

ムスハフの啓示は、神がかり宗教(「巫者を神が支配する宗教」)から、ムハンマドの政治思想に転化したとする見解[編集]

メディナ時代における神の啓示では、アブラハムイシマエルカアバ神殿を建設したとされている。しかし、この見解は、一般的には、ムハンマドの創作した見解であるとされている。また、ムハンマドは、アラブの民族感情の上にイスラムをしっかりと基礎づけるために、アブラハムの宗教と自分の主張とを結びつけたとされている[20]。メディナ時代のイスラームの歴史は、ムハンマドがアラビアの王になるまでの政治的成功の歴史でもある。一神教と聖石信仰を融合していったムハンマドの支配者としての思想を重点に置いて見ると、そのような見解が生まれてくるものだと言える。

ムスハフは、「主なる神の啓示」からはじまったが、やがて「聖石信仰の巫者、の啓示」に変化した、とする見解[編集]

ムハンマドの場合、最初のうちは洞窟などで瞑想にふける修行をしていたようだ。そのことは、ムハンマドには預言者としての心の境地が整っていた、と見ることができる。当初、彼には、主なる神の啓示が降りてきたようである。しかし、やがて彼は、政治家として、戦闘や殺人や強盗に手を染めるようになってしまった。そのため、彼には、主なる神の啓示が降りてこなくなったようである。ムハンマドに降りてきた啓示は、聖石信仰ともいえる散文的な啓示だけであった[注 5]

「巫者を神が支配する宗教」の特徴としては、啓示を受ける巫者の心の境地の状態に応じた霊的存在が、その人の体を支配するとされている。聖なる存在は聖なる心に来たり、俗なる存在は俗なる心に引き寄せられるとされている。降霊を待ち望んでいる人の心には、心の隙があるとされる。降りてきた霊の姿を霊視できない場合、神だと名乗ってきた低級霊にだまされることは、往々にしてあるとされる。ムハンマドは霊聴はできたが、たまにしか、霊を視ることはできなかったとされているので、だまされやすい条件はそろっていると見ることができる[注 6]

現代社会とムスハフ解釈本[編集]

神が直接語ったとされる言葉をまとめた『ウスマーン版ムスハフ』を、ムスリムは、聖典解釈原理に基づいて解釈することで、イスラーム文化を生んで来た。それは、様々な方向に向かう人間生活の一切を解釈することであったとされる[8]

七世紀に発生した書物をイスラーム教では、現代生活のシャリーアの基準にしている。それにより、ムリや矛盾が生じるのは当たり前とする見解がある[24]

現代社会において、イスラム法学者は、そうした、無理ともいえる矛盾の解消を現実社会に実現している、としている。しかし、男女差別や、教育、テロなど、当事者にとって、問題は大変切実な状況にあるままであると見ることができる。

詳しくは、ナスフ を参照。

イスラーム教過激派について[編集]

イスラーム教とはどういうものかについて考えた場合、まず、イスラーム教過激派の存在が頭に浮かんでくる人は多いようである。しかし一方で、イスラーム教とは平和の宗教だという主張をする人もいるようである[25]。イスラーム教がこうした教えの幅を現実のものとして維持している背景には、ナスフ等のツールがあるようである。

イスラーム教過激派の原理主義者の中には、彼らの戦闘的イデオロギーがムハンマドの生涯に基づいていると主張する者がいる[18]。また、イスラーム法の指導者は、イスラーム教過激派をイスラームとして容認している現状もあるとされる[26]

ムスハフ解釈本におけるアッラーとは(非イスラーム教徒にとってのアッラーとは)[編集]

ムスハフにおいて、預言者の権威を確立させている箇所は、すべてメッカで啓示されたものであるとされる。メッカ初期の啓示には主なる神の姿がよく表れている。

アッラーについて[編集]

初期の啓示とは、最初の神の啓示から、約四年ほど経つまでの間に下されたアッラーによる啓示を指す。その、最初期の啓示に顕された姿は、ユダヤ教(なかでもモーセの十戒)やキリスト教(なかでもナザレのイエスの教え)で説かれている神の姿とたいへんよく似通っているとされる[27] [注 7]。 97章では、「天使たち」と「聖霊」は、主のお許しを得て、すべての神命をもって地上に降臨することが啓示されている。これは、ユダヤ教の世界観と同じような世界観であると見ることができる。また、ごく初期のものとされる96章1~5、74章1~7では、「あなたの主」、という呼称が、神の啓示の中で用いられている[注 8]

人間の生きる環境を整えている創造主としての神[編集]

『クルアーン』第88章では、神が天地の(ひいては宇宙の)創造主であることを顕している。ここではメディナ期の啓示における平坦な地球を回る天動説の宇宙論とは異なり、現代でも通用する総合的な表現がされている。神の創造により万物がつくられたと表現されている。人間が眼前に見ることができる自然の営みの中に、神の力が見られるとされている。めぐりゆく自然の姿も神の創造の力であるとされている[29]。 また、地球環境を全体的に整え、人間が生活できるように保っているのは、変わることのない神の慈悲心のあらわれであるとされている[29]

平和の神[編集]

106章1には、「クライシュ族をして無事安泰に」という啓示があり、これは初期の啓示であるとされている。強情な偶像崇拝者であっても、無事安泰を祈れ、すなわち敵の平和を祈り行動せよということが言われている[30]

106章3には、彼ら偶像崇拝者はそのまま彼らの主としている神におつかえさせておけばよい、ということが、神によって言われている[注 9]。神は、すべての存在を育んでいる。そのため、神には、敵というものは無いと考えることができる。「あなたのために、わたしの前に他の神々があってはならない」というモーセの説いた、十戒の第一条と同じもののようでもある[注 10]

人間を導く神[編集]

人間は智慧を持つ存在となるように成長してゆくことができる。神はそのように人間を作った。96章において、神は、孤児であったムハンマドを導き、望んでいた女性との結婚ではなく、ハディージャという未亡人との結婚を通して、財政的にも、知的にも豊かになるように導いた[31]

「使徒」を遣わすことも神の恩寵[編集]

人類を導くために「使徒」を遣わすことも神の恩寵の一つである。初期には最後の使徒ということは言われておらず[32]、むしろ、苦しむ人間のいる世界が終わらない限り、「使徒」は必要とされてゆくでしょう。よりよく成長してゆく人間がいる限り、神は使徒を送り続ける、というようなニュアンスがある。カダルの夜に、天使たちと聖霊は、主のお許しを得て、すべての神命をもって聖なる月に降臨することが啓示されている。それは、一年に一度あるとされている[33][注 11]

また、後年アラビアの王となったムハンマドに警告するかのように、「汝は一人の警告者にほかならない、彼らの支配者ではないのだ」、というメッセージも下されている[29][注 12]

肉体が復活するというタイプの最後の審判は明言されていない[編集]

初期の啓示においては、肉体が復活する最後の審判については明言されていない。初期の啓示(84章)においては、死んで地獄に行った男が地獄で苦しめられている様を、今まさに、目の前で神が見ている様が描かれている。そして、人間には、死ぬと天(天国)に上る魂があるようである。(あの世に行ったと思われる)魂が、何段階かに分かれている天の国を、渡り歩く姿が描かれている[34]。「最後のさばきの日」(ヤウム・アッデイーン)という語には、「真実の時」という意味もあるとされている[35]。初期のころ、クルアーンが朗誦されたときに、それを聞いた者のズィクル(喚起)と一体となった姿で審判の時が説かれていたとされる。クルアーンの朗誦は、聞き手が「真実の時」を生きるように、実存的ともいえる、時空を超えた神の審判に直面させる現象が生まれるとされている[36][注 13]

ムスハフ解釈本に見るクルアーンの啓示の分類[編集]

ムハンマドの後を継いだ指導者たちは、初期の啓示と、メディナ後期の啓示とでは、いうことが全く違っていたことを認識していたようである。そのため、「クルアーン」の解釈しだいでは、大国が分裂してしまうということを予見していたとされる[37]。 そのためかどうかは不明であるが、ムスハフは一つの章がそれが啓示された時代ごとに分けられておらず、戦闘を推奨するタイプの啓示から読めるように、新旧織り交ぜて編集されている。ムスハフ解釈本を研究する者は、古い啓示と新しい啓示が、章や節単位に至るまで混在しているので、大体三つの時期に全体を大別するのが常である。三期に分ける分け方は以下のようになっている[38]

1、初期 メッカ時代 預言者の権威を確立させている箇所はすべて、

2、中期 メッカ・メディナ時代

3、後期 メディナ時代

四期に分けられるケース[編集]

メッカ期を三分割し、全体を四期に分ける分け方もある[39][注 14]

1 メッカ期の最初の時期の啓示の特徴[編集]

最初の時期の啓示の特徴としては、ムハンマドの洞窟での瞑想の修養ののち、かつてモーセやイエスに現れた神からの啓示が下ったということがあげられる[注 15]。ムハンマドは、単なる警告者であって、支配者(政治的な事柄の判断者)ではない、としている[40][注 16]

この時期は、サジウ形式にて、すぐれた詩文が啓示された。簡明な語調で厳粛な啓示としての本質が明かされた。

メッカ期の最初の時期の啓示の箇所については、 ナスフ を参照のこと。

2 メッカ期第2の時期の啓示の特徴[編集]

メッカ期第2の時期は、ムハマンド自らが騒動の中心になってしまった時期を指し、彼の心は、瞑想に伴う心の平安とは縁遠い心境に変化していたと思われる。神の啓示は、ムハンマドの感情の起伏と同調したものとなっている。

3 メッカ期第3の時期の啓示の特徴[編集]

メッカ第3期は、神が、一つの教えを説くことに執心している。この時期に、神の話は、バランスのとれた説教の形がとれるまでに成熟したとされている。

4 メディナ期の時期の啓示の特徴[編集]

神の自己主張、啓典の民という概念、ガブリエルの名、最後の預言者、ジハード、多神教徒を敵視し、見つけ次第殺せ、という啓示はメディナ時代に行われている。クルアーンという言葉自体もメディナ時代の啓示である[41]

神の意識の現れとしての啓示宗教の歴史[編集]

啓典の民という概念は「アフル・アル=キターブ」というクルアーンの言葉を訳したものとされているが、正確には「先行する神の啓示、に従う民」になるとされている[42]。モーセ五書は、後世になって学者が、いろいろな系統の伝承、を編集してできたものである。福音書にしても、何人もの編集者によって、いくつもの系統の伝承、を物語に編集してある。そのため、「啓典」を「先行する啓示」と言い換えても、歴史的に見て、明確とならない部分が多い。

ユダヤ教(モーセの十戒)(他との協調を図る一神教)[編集]

モーセの十戒の第一は、ユダヤ教によれば、旧約聖書に伝承されてきた内容とは、違っているとされている。それは、他を排する絶対的唯一神教ではなく、他との協調を図りながら共存してゆく「拝一神教」というものであったとされる。 「他の神々が、あなたのためにわたしの面前にあってはならない。」という神の啓示が、モーセに下った[注 17]

詳しくは モーセの十戒 を参照。

ユダヤ教(絶対的一神教)[編集]

絶対的一神教を参照

イエス(宗教者)の教え(他との協調を図る一神教)[編集]

唯一神#イエス(宗教者)を参照

キリスト教(絶対的一神教)[編集]

絶対的一神教を参照

イスラーム教(最初期)(他との協調を図る一神教)[編集]

アラブの伝承では、人はめいめいに自身の精霊(ジン)を持っているとされ、砂漠の民は、神、あらゆる精霊、あらゆる超自然の力に畏怖の念を抱いているとされる[43]。当時、ムハンマドの住んでいた地域のキリスト教は、異端とされるものであったとされ、閑静な場所で、瞑想生活を送るタイプの異端であったとされる。ムハンマドは、啓示を受け始める以前、ヒラー山の洞窟に、定期的に数か月単位で瞑想生活を送っていたとされる。それは、ムハンマドの祖父が、キリスト教徒に関心を持ち、異端とされる宗派の信仰生活に影響を受けてのものであったようだ。祖父の代より行われていた、一家の宗教行事ともいえる瞑想生活を契機として、ムハンマドに神の啓示が下される事態となったわけである。

啓示を受け始めた当初、神はムハンマドに対して「あなたは神の預言者である」という言葉を繰り返していたとされている。彼が瞑想のために山に登るたび、その声が彼をつつみ、彼の自覚を促していたという[44]。その神が、ユダヤ教やキリスト教の神と同じであると直感したのは、彼を取り巻く人たちであった。

ヒラー山にて、内的啓示を受けたとき、ムハンマドは、それがアラブに昔から言い伝えられるジンと呼ばれる霊的存在であると思った。妻は、妻のいとこに相談をした。「かつてモーセを訪れた偉大な神が到来したのだ」と、いとこは、ムハンマドに語ったと言われます[45]。その後、ムハンマドが「ヒラー山」に登るたびに「ムハンマドよ、あなたは神の使徒である」という、神の、啓示があったとされる。ムハンマドには、その神が、「モーセを訪れた偉大な神」であるかどうかは判らなかった。けれども、神によって、モーセに連なる預言者の一人としての自覚を促されている、という認識はあったようだ[注 18]

スーフィズムにつながる心境[編集]

ムハンマドの啓示も、当初はイエス(宗教者)と同じ、一なる神の理を説くものであり、平和を目指すものであったとされる。しかし、平和のために剣を取ることによって生じた甚だしい自己矛盾が、神の理とその啓示から、ムハンマド(宗教者)を遠ざけてしまった、という見解がある[46]。そのような観点からすると、ムハンマドの意識は、最初期に限定してみた場合、「神の理」を悟る心境にあったとみることができる。また、信者においては、こうした瞑想生活と神の理に対する理解と洞察から、後年のスーフィズムが生じてきたとみることができる。

スーフィズムの修行例[編集]

イスラーム世界において異端とされてきたスーフィーの一派の中には、人間の自我意識の払拭を修行の目的としている一派があるとされている。彼らは、人間には「我」というものがあるから、苦しみや悪があると捉え、修行者は、自我意識を内的に超克したところに、神の顔を見ることが出来るとされる。スーフィーにおいて、神は、自分自身の魂の奥底に存在するだけでなく、すべての場所に遍在しているとされる。また、神は、あらゆる物事の内面に存在している内在神であるともされている。 そして、修行者においては、自己否定の無の底に、「遍在する人格的な神」の実在性の顕現が為されるとされる[47]

  • 「悪とは汝が汝であることだ。そして最大の悪とは、・・・それを汝が知らないでいる状態のことだ」。(アブー・サイード)(11世紀のスーフィー)
  • 「汝が汝であることよりも、大きな災いはこの世にはありえない」。(アブー・サイード)
  • 「我こそは真実在」。(ハッラージ)(10世紀のスーフィー)
  • 「我が虚無性のただ中にこそ、永遠に汝の実在性がある」。(ハッラージ)
  • 「人間的自我の消滅とは、神の実在性の顕現がその者の内部を占拠して、もはや神以外のなにものの意識もまったく残らないことだ」。(ジャーミー)(15世紀のスーフィー)
  • 「蛇がその皮を脱ぎ捨てるように、わたしは自分という皮を脱ぎ捨てた。・・・私は彼だったのだ」。(バーヤジード)(9世紀のスーフィー)

[注 19]

イスラーム教(絶対的一神教)[編集]

絶対的一神教を参照

ムスハフ解釈本に見るイスラーム教の姿[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ ムスハフ本文には、「ムスリムは異教徒とクルアーンについての講釈論争をしてはならない」という規定が存在している。そのため、注釈や解説付きの「ムスハフ解釈本」は、存在してはならない、それは神の命令である、という受け止め方がされているようだ。
  2. ^ 歴史的には、ムハンマド以前の数千年間の期間と、彼の死後約1400年の期間を比較してみると、人間の心や、社会の問題の質は変わっていないと言える。しかし、預言者の数は、12400人対 0人というアンバランスな状態が続いている結果となっている。(『聖典クルアーンの思想』大川玲子著 講談社 2004年 P50)
  3. ^ イスラム法学者は、時期的に新しい神の真理が、前からある神の真理を破棄することが出来るという方法を考え出した。これにより、「背信者は、その人が背信者であるために、神の真理が、食い違いがあるように見えるのだ」、という見解を、イスラム法学者は主張できるようだ。
  4. ^ 初期のキリスト教宗派の中のいくつかの宗派は、イエスが十字架につけられて死んだとは信じていなかった宗派があったとされている。ムハンマドもこれと同じように考えて、イエスが十字架で死んだことは虚妄であるとした。そして、ムハンマドは、彼らの虚妄を非難していたものであるとする解釈もある。[17]
  5. ^ 当初ムハンマドの教えはイエスの教えやブッダの教えと同じものであったが、剣を取ることにより矛盾が生じ、彼らの教えとはかけ離れたものになってしまった、とする見解がある。[22]
  6. ^ 霊の姿が見えないムハンマドは、「お前は今、こんなことを考えているだろう」、「神様にはすべてお見通しだ」、「疑うことは背信行為である」という啓示を受けた場合、ムハンマドはその真偽を確かめるすべを持たなかった。ムハンマドは、絶対帰依の態度で、それを受け入れた。こうした誘導行為は、悪霊を神として祀る宗教や、神による啓示宗教にはありがちなことであるとする見解がある。[23]
  7. ^ しかしながら、ムスハフにおいては、「モーセの教え」や「ナザレのイエスの教え」というふうには捉えられていない。それらについては、ムハンマドの生存した当時の各宗派の口伝や回答の中に出てくる聖典、といったような曖昧な捉え方が為されている。「啓典の民」という言い回しは、「クルアーンは最も優れた啓典である」という神による自己主張のひきあいに出されているだけの場合が多いといえる。
  8. ^ ムスハフ全体を通じて、神の呼称は一貫していないとされている。初期のメッカ時代には、その時期ではおもに「主」と「アッラー」が、用いられているとされる。[28]
  9. ^ ここでは、今現在啓示を下している神がそのままこの神殿の主であるとは言っておらず、厳密な意味では違うと見ることができる。啓示している神の方針としては、「他との調和を図りながら唯一の神を拝みなさい」ということで、彼らは彼らで彼らの神を、そのまま拝ませておけばよい、というふうに読める
  10. ^ 多神教徒は見つけ次第殺せという句は、生かそうとする神の意志に反するという見方もできる。「神は善い者の上にも悪い者の上にも太陽を登らせ、雨を降らせてくださる」、というイエスの言葉と同じようにも見える。日々刻々と人間を生かす働きをなす絶対的な神にとって、信仰者・不信仰者という見方や、敵・味方の次元は超えていると言える。
  11. ^ 一年に一度は、警告者の心の境地が聖断の夜と同調し、警告者にとっての運命の夜が訪れることが読み取れる。そして、その日は千の月(100年ほど)と同じほどの重要性があるということである。それはこういうふうにも読み取れる、「神の慈悲により、少なくとも100年に一度、預言者が出現しつづける」と。神は、世の苦しみが続く限り、預言者の系譜を続けてゆくようだ。
  12. ^ 現在のイスラームのように、警告者が、神の意志に反してこの世の王となったという事態に加えて、神が、「私は、ムハンマドで預言者を世に送ることをやめる」という啓示を下せば、神は、彼の後に続く預言者の系譜の全体を否定できることとなる。
  13. ^ 86章4には、人間が魂を持つことが記されており、指導の天使がついているとされている。また、明言されていない最後の審判は肉体が滅ぶ最後の時とも読める。この章句と同じように、ナザレのイエスにおいても、最後の審判はいつくるかは、神以外には、わからない、とした。終末論#ナザレのイエスが語った終末観参照
  14. ^ このわけ方で全体の啓示を分割した方が、神の啓示と、ムハンマドの心の状態との関連性がつかみやすいと言える。
  15. ^ モーセはシナイ山にて40日、イエスは荒野にて40日、聖なる生活を送ったとされる。
  16. ^ イエスは最終的に、王になる道は選ばなかったとされる。新約聖書マタイ4章8
  17. ^ 岩波書店2000年旧約聖書〈II〉出エジプト記 レビ記P89。伝統的なキリスト教とは異なり、他の神々の存在そのものを否定する発言ではないとしている。(出エジプト記20:3の注、木幡ら)
  18. ^ しかし、初期の啓示とされるものについても、ヒラー山にて下されたものはごくわずかであり、2年ほど通信は途絶えたとされている。その後は、当時の偶像崇拝のメッカであった神殿にて再開されたと言われている。当時の神殿は、人身御供も行われるほど、霊的に乱れた場所であり、その後の神の啓示の神聖さに大きな影響を与えたと考えられる。詳しくはナスフを参照のこと。
  19. ^ 内面的に純化されたイスラームは、「悟り」を求める修行者の意識と共通する部分があると言える。このように、内面的ともいえるイスラームの一宗派は、イスラーム自身の歴史的形態の否定スレスレのところまで来ているとされている。そのため、イスラーム教において彼らは、異端として弾圧されてきたとされている。(出典『イスラーム文化』 岩波書店 1991年 P218 井筒俊彦著)

出典[編集]

  1. ^ 『聖典「クルアーン」の思想』大川玲子著 講談社 2004年P64
  2. ^  『クルアーン入門』松山洋平編 作品社 2018年 P125 後藤
  3. ^ 『コーラン 上』井筒俊彦著 岩波書店 1957年 P299 解説
  4. ^ 『イスラーム文化』井筒俊彦岩波書店1991年P154
  5. ^ 『イスラーム文化』井筒俊彦岩波書店1991年P43
  6. ^ 『イスラームの歴史』カレン・アームストロング小林朋則訳 中央公論新社2017年P38
  7. ^ 『コーラン 中』井筒俊彦 岩波書店1958年P302 解説
  8. ^ a b 『イスラーム文化』井筒俊彦著 岩波書店 1991年 P38
  9. ^ 『イスラーム文化』井筒俊彦著 岩波書店 1991年 P48
  10. ^ 『イスラーム文化』井筒俊彦著 岩波書店 1991年 P212
  11. ^ 『イスラーム文化』井筒俊彦著 岩波書店 1991年 P170
  12. ^ 『イスラーム文化』井筒俊彦著 岩波書店 1991年 P210
  13. ^ マララ・ユサフザイの国連本部でのスピーチhttps://www.unic.or.jp/news_press/features_backgrounders/4790/
  14. ^ 『マホメット』井筒俊彦 講談社 1989年 P110
  15. ^ 『マホメット』藤本勝次著 中央公論社1971年P82
  16. ^ 『聖典「クルアーン」の思想』大川玲子著 講談社 2004年 P118
  17. ^ 『コーラン 1』藤本勝次 伴康哉 池田修 中央公論新社 2002年 P130 注9
  18. ^ a b c 『ムハンマド』カレン・アームストロング著徳永理沙訳 2016年国書刊行会 P13
  19. ^ 『コーラン下』井筒俊彦 岩波書店 1958年 P318 
  20. ^ a b 『コーラン 1』藤本勝次 伴康哉 池田修 中央公論新社 2002年 P252 注28 注29 注32
  21. ^ 『ムハンマド』カレン・アームストロング著徳永理沙訳 2016年国書刊行会 P44
  22. ^ 『心眼を開く』高橋信次著 三宝出版 1974年 P142
  23. ^ 『心の指針』高橋信次著 三宝出版1974年 P80
  24. ^ 『聖典「クルアーン」の思想』大川玲子著 講談社 2004年 P32
  25. ^ 『クルアーン入門』松山洋平 作品社 2018年 P1
  26. ^ 『ムハンマド』 カレン・アームストロング著 徳永理沙訳国書刊行会 2016年 P14
  27. ^ 『マホメット』藤本勝次著 中央公論社 1971年 P15
  28. ^ 『コーラン 1』中央公論新社 池田修前書き・イスラームの聖典 P27
  29. ^ a b c 『マホメット』藤本勝次著 中央公論社 1971年 P12
  30. ^ 『コーラン下』井筒俊彦著岩波書店1958年 P305の注
  31. ^ 『ムハンマド』カレン・アームストロング著徳永理沙訳 2016年国書刊行会 P34
  32. ^ 『マホメット』藤本勝次著 中央公論社 1971年 P10
  33. ^ 『コーラン 下』井筒俊彦著 岩波書店1958年 P295
  34. ^ 『コーラン下』井筒俊彦著岩波書店1958年 P270の注
  35. ^ 『ムハンマド』カレン・アームストロング著徳永理沙訳 2016年国書刊行会 P60
  36. ^ 『ムハンマド』カレン・アームストロング著徳永理沙訳 2016年国書刊行会 P62
  37. ^ 『イスラーム文化』井筒俊彦 岩波書店著 1991年P43
  38. ^ 『コーラン 中』井筒俊彦岩波書店 1958年 P301 解説
  39. ^ 『コーランの新しい読み方』ジャック・ベルク著 内藤陽介 内藤あいさ訳 晶文社 2005年P26
  40. ^ 『イスラームの歴史』カレン・アームストロング著 小林朋則訳 中央公論新社 P15
  41. ^ 『クルアーン入門』松山洋平編 作品社 2018年 松山洋平 P19
  42. ^ 『イスラームの歴史』カレン・アームストロング著 小林朋則訳 中央公論新社 P11
  43. ^ 『マホメットの生涯』 河出書房新社 2002年 P22 ビルジル・ゲオルギウ著 中谷和夫訳
  44. ^ 『マホメットの生涯』河出書房新社 2002年 ビルジル・ゲオルギウ著 中谷和夫訳
  45. ^ 『ムハンマド』国書刊行会 2016年 P45 カレン・アームストロング著 徳永理沙訳
  46. ^ 『心眼を開く』 三宝出版 1974年 P142 高橋信次著
  47. ^ 『イスラーム文化』 岩波書店 1991年 P212 井筒俊彦著

参考文献[編集]

『クルアーン入門』松山洋平編 作品社 2018年 松山洋平 小布施祈恵子 後藤絵美 下村佳州紀 平野貴大 法貴 遊 共著

『コーラン 1』藤本勝次 伴康哉 池田修 共著 中央公論新社 2002年

『コーラン 2』藤本勝次 伴康哉 池田修 共著 中央公論新社 2002年

『聖典「クルアーン」の思想』大川玲子著 講談社 2004年 

『一冊でわかる コーラン』マイケル・クック著 大川玲子訳 岩波書店2005年

『コーラン 上』井筒俊彦著 岩波書店1957年

『コーラン 中』井筒俊彦著 岩波書店 1958年

『コーラン 下』井筒俊彦著 岩波書店1958年

岩波書店2000年旧約聖書〈II〉出エジプト記 レビ記 木幡藤子・山我哲雄訳(出エジプト記解説、木幡藤子)

関連項目[編集]