ヨランド・ド・クルトネー

ウィキペディアから無料の百科事典

ヨランド・ド・クルトネー
Yolande de Courtenay
ハンガリー王妃
在位 1215年 - 1233年
戴冠式 1215年2月 セーケシュフェヘールヴァール

出生 1200年
フランス王国、クルトネー
死去 1233年6月
ハンガリー王国の旗 ハンガリー王国エステルゴム
埋葬 ハンガリー王国の旗 ハンガリー王国、イグリシュ修道院
結婚 1215年2月 セーケシュフェヘールヴァール
配偶者 アンドラーシュ2世
子女 ヨラーンタ
家名 クルトネー家
父親 ピエール2世・ド・クルトネー
母親 ヨランド・ド・フランドル
テンプレートを表示

ヨランド・ド・クルトネーYolande de Courtenay, 1200年 - 1233年6月)は、ハンガリー国王アンドラーシュ2世の2人目の王妃[1]

生涯[編集]

ピエール2世・ド・クルトネーと、2人目の妻のヨランド・ド・フランドルラテン帝国皇帝ボードゥアン1世アンリ1世の姉妹)の娘。ヨランドのアンドラーシュ2世との結婚は、アンドラーシュ2世の最初の妻ゲルトルート1213年9月28日に暗殺された後に、叔父の皇帝アンリ1世によって手配された。

2人の結婚式は1215年2月にセーケシュフェヘールヴァールで行われ、エステルゴム大司教のヤーノシュが彼女の王妃としての戴冠を執り行った。しかし、ハンガリーの王妃の戴冠式は伝統的にヴェスプレーム大司教の特権であったため、ヴェスプレームのローベルト大司教は教皇インノケンティウス3世に訴えた。教皇は調査のためにハンガリーに教皇特使を送り、ヴェスプレーム大司教の特権を認めた。

1216年7月11日に叔父アンリ1世が亡くなった後、アンドラーシュ2世は自身が皇帝位に就くことを計画していたが、ラテン帝国の男爵達はヨランドの父ピエールを皇帝と宣言した。

ヨランドはアンドラーシュ2世の前妻の子ども達と良好な関係だった。ヨランドはアンドラーシュ2世よりも先に亡くなり、シトー会のイグリシュ修道院に埋葬された。

子女[編集]

アンドラーシュ2世との間に、1女を儲けた。

脚注[編集]

先代
ゲルトルート
ハンガリー王妃
1215年 - 1233年
次代
ベアトリーチェ