ルキウス・コルネリウス・キンナ (紀元前32年の補充執政官)

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ルキウス・コルネリウス・キンナ
L. Cornelius L? f. L? n. Cinna
出生 紀元前77年
死没 紀元前21年
出身階級 パトリキ
氏族 コルネリウス氏族
官職 財務官紀元前44年
補充執政官紀元前32年
アルウァル・ブレテレン(紀元前20年代)
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ルキウス・コルネリウス・キンナラテン語: Lucius Cornelius Cinna紀元前77年 - 紀元前21年)は紀元前1世紀中期・後期の共和政ローマ帝政ローマの政治家・軍人。紀元前32年補充執政官(コンスル・スフェクトゥス)を務めた。

出自[編集]

キンナはエトルリアに起源を持つパトリキ(貴族)であるコルネリウス氏族の出身であるが、コルネリウス氏族はローマでの最も強力で多くの枝族を持つ氏族でもあった[1][2]

キンナの父は紀元前44年プラエトル(法務官)を務めたルキウス・コルネリウス・キンナ、祖父はマリウス派の中心人物として執政官を4回務め、ルキウス・コルネリウス・スッラと戦ったルキウス・コルネリウス・キンナと思われる[3]

経歴[編集]

紀元前44年カエサル暗殺年)、キンナはカエサル派のプブリウス・コルネリウス・ドラベッラの下でクァエストル(財務官)を務めた。キンナはシリアに騎兵部隊500を連れて行くことになっていたが、途中テッサリアで兵士たちはマルクス・ユニウス・ブルトゥスに寝返った[4][5](但し、これは父のことかもしれない)。

紀元前32年、正規執政官グナエウス・ドミティウス・アヘノバルブスマルクス・アントニウスパルティア遠征計画に参加するために離職したが、その後を継いで補充執政官に就任した[6]

紀元前20年代には「Arval Brethren」(豊作を祈念する聖職者の集団)の一員であったことが分かる[7]

家族[編集]

キンナはポンペイウスと3番目の妻ムキア・テルティア(クィントゥス・ムキウス・スカエウォラの娘)の間にできた娘と結婚した。彼女はファウストゥス・コルネリウス・スッラ(ルキウス・コルネリウス・スッラの息子)の未亡人であった。キンナとこの妻の間には男子が1人、女子が1人が生まれている。グナエウス・コルネリウス・キンナ・マグヌス(西暦5年執政官)とポンペイア・マグヌスである[8][9][10]

脚注[編集]

  1. ^ Haywood R., 1933, p. 22.
  2. ^ Bobrovnikova T., 2009, p. 346-347.
  3. ^ Syme, p. 279
  4. ^ キケロ『ピリッピカ』、X, 13; XI, 27
  5. ^ プルタルコス『対比列伝:ブルトゥス』、25.
  6. ^ Broughton, p. 417
  7. ^ CIL 6, 32338
  8. ^ カッシウス・ディオ『ローマ史』、LV, 14
  9. ^ 小セネカ『寛容について』、I, 9 (2)
  10. ^ CIL, 6, 1961

参考資料[編集]

古代の資料[編集]

研究書[編集]

  • Bobrovnikova T. "Scipio African" - M .: Young Guard, 2009. - 384 p. - ISBN 978-5-235-03238-5 .
  • Broughton R. Magistrates of the Roman Republic. - New York, 1951. - Vol. II.
  • Corpus Inscriptionum Latinarum (CIL)
  • Haywood R. "Studies on Scipio Africanus" - Baltimore, 1933.
  • Syme R. The Roman Revolution, Oxford Univ Pr

関連項目[編集]

公職
先代
アウグストゥス II
ルキウス・ウォルカキウス・トゥッルス
補充:
ルキウス・アウトロニウス・パエトゥス
ルキウス・フラウィウス
ガイウス・フォンテイウス・カピト
マルクス・アキリウス・グラブリオ
ルキウス・ウィニキウス
クィントゥス・ラロニウス
補充執政官
正規執政官:
グナエウス・ドミティウス・アヘノバルブス(途中離任)
ガイウス・ソシウス(途中離任)

紀元前32年
補充執政官:
マルクス・ウァレリウス・メッサッラ
次代
マルクス・アントニウス III
アウグストゥス III
補充:
マルクス・ウァレリウス・メッサッラ・コルウィヌス
マルクス・ティティウス
グナエウス・ポンペイウス