レオポルト3世 (オーストリア辺境伯)
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レオポルト3世 Leopold III. | |
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オーストリア辺境伯 | |
在位 | 1095年 - 1136年 |
出生 | 1073年 神聖ローマ帝国 オーストリア辺境伯領、メルク |
死去 | 1136年11月15日 神聖ローマ帝国 オーストリア辺境伯領、クロスターノイブルク |
埋葬 | 神聖ローマ帝国 オーストリア辺境伯領、クロスターノイブルク修道院 |
配偶者 | アーデルハイト・フォン・ペルク |
アグネス・フォン・ヴァイプリンゲン | |
子女 | 一覧参照 |
家名 | バーベンベルク家 |
父親 | オーストリア辺境伯レオポルト2世 |
母親 | イーダ・フォン・フォルムバッハ=ラテルンベルク |
レオポルト聖伯 | |
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聖遺物である聖レオポルトの頭蓋骨(クロスターノイブルク修道院) | |
崇敬する教派 | カトリック教会 |
列聖日 | 1485年1月6日 |
列聖決定者 | インノケンティウス8世 |
記念日 | 11月15日 |
守護対象 | オーストリア ニーダーエスターライヒ州 ウィーン |
レオポルト3世(独: Leopold III., 1073年 - 1136年11月15日[1])は、バーベンベルク家のオーストリア辺境伯(在位:1095年 - 1136年)。オーストリア辺境伯レオポルト2世の子としてメルクに生まれる[1]。事績はあまり多く知られていない人物と評される[1]一方で、貴賎、聖俗問わず声望は高かったという[1][2]。後に列聖され、レオポルト聖伯とも呼ばれる[3]。
生涯
[編集]1095年より辺境伯となった。神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世の娘でハインリヒ5世の姉アグネス(シュヴァーベン大公フリードリヒ1世の未亡人)と結婚し、バーベンベルク家の地位を高めた[4]。1122年のヴォルムス協約締結においては政教両者の仲介に当たった[2][5]。ハインリヒ5世の死によってザーリアー朝が断絶すると、次のドイツ王候補としてあげられたが、この推薦は辞退した[1]。
教会へのパトロンとしていくつかの大修道院を設立したことでも知られる[1]。クライン・マリアツェル修道院[6]、1114年設立のクロスターノイブルク修道院[7](前身は1113年[8])、そして自身の子オットーのために[9]オーストリア最初のシトー会修道院であるハイリゲンクロイツ修道院[10]を創設した。
1136年に死去。狩猟の最中に何らかの理由により死去したとされる[11]。そして自身の設立したクロスターノイブルクのクロスターノイブルク修道院に埋葬された[5]。1485年、インノケンティウス8世により列聖された[5]。1663年より、ニーダーエスターライヒ州とウィーンの守護聖人となって崇敬を集めている[12]。
子女
[編集]2度結婚しており(アグネスは2人目の妻)[12]、アグネスとの間だけでも18人の子をもうけた[5]。本人も先述のドイツ王候補辞退の理由として、子の多さによる跡目争いの勃発を危惧していたという[11]。
最初の妻アーデルハイト・フォン・ペルクとの間に1男がいる。
アグネスとの間に以下の成人した子がいる。
- ハインリヒ2世(1107年 - 1177年)
- レオポルト4世(1108年頃 - 1141年)
- ベルタ - レーゲンスブルク城伯ハインリヒ3世と結婚
- アグネス(1111年 - 1157年) - ポーランド大公ヴワディスワフ2世と結婚、「当代最高の美人の1人」と言われていた
- エルンスト(1137年以後に没)
- ウータ(1154年没) - ルイトポルト・フォン・プラインと結婚
- オットー(1114年頃 - 1158年) - フライジング司教、甥である皇帝フリードリヒ1世の伝記を著す
- コンラート2世(1125年頃 - 1168年) - パッサウ司教、ザルツブルク大司教
- エリーザベト(1143年没) - ヴィンツェンブルク伯ヘルマン2世と結婚
- ゲルトルート(1151年没) - ボヘミア王ヴラディスラフ2世と結婚
- ユディト(1110年代後半/1120年 - 1168年以後) - モンフェッラート侯グリエルモ5世と結婚
伝説
[編集]クロスターノイブルク修道院の縁起には「ベール伝承」というものがある。これはレオポルト3世とアグネスがなくしたベールを、9年後になくしたときのままの状態で森において再発見したことに感謝しその場所に修道院を創設したというものである。もっともこの伝承は14世紀後半頃から発生した伝説である。[14]
脚注
[編集]- ^ a b c d e f アットウォーター,ドナルド; ジョン,キャサリン・レイチェル 著、山岡健 訳『聖人事典』三交社、1998年、461-462頁。ISBN 4-87919-137-X。
- ^ a b 幅健志「ハプスブルク家異聞(その 4)バーベンベルク家(前編) : ドナウ辺境伯領」『同志社外国文学研究』、同志社大学、85-130頁、1987年。ISSN 02862832 。、p.129。
- ^ 前掲 (幅 1987, p. 123-)。
- ^ 前掲 (幅 1987, pp. 123–125)。
- ^ a b c d “Saint Leopold III”. 2014年2月1日閲覧。
- ^ 前掲 (幅 1987, p. 126)。
- ^ “Cordial greetings from Klosterneuburg Monastery!”. クロスターノイブルク修道院. 2014年2月2日閲覧。
- ^ “Faith”. クロスターノイブルク修道院. 2014年2月2日閲覧。
- ^ ブラウンフェルス,ヴォルフガング 著、渡辺鴻 訳『図説西欧の修道院建築』八坂書房、2009年、121頁。ISBN 978-4-89694-940-7。
- ^ シトー会最初の4修道院のひとつ、モリモン修道院の子院という扱い。
- ^ a b 前掲 (幅 1987, p. 130)。
- ^ a b “Leopold III., Heiliger, Babenberger-Markgraf, * 1073”. AEIOU. 2014年2月2日閲覧。
- ^ この伝説を題材とした絵画。“Markgraf Leopold III., „der Heilige””. de:Ökumenisches Heiligenlexikon. 2014年2月2日閲覧。
- ^ 前掲 (幅 1987, p. 127)。
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