一柳末徳
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一柳末徳 | |
時代 | 江戸時代後期 - 大正時代 |
生誕 | 嘉永3年7月19日(1850年8月26日) |
死没 | 大正11年(1922年)3月7日[注釈 1] |
改名 | 包五郎[1]、末徳 |
諡号 | 徳源院殿実道至信大居士[1] |
墓所 | 東京都の染井墓地[1] |
官位 | 対馬守[1]、正三位、従二位 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家茂、慶喜、明治天皇、大正天皇 |
藩 | 播磨小野藩主 |
氏族 | 九鬼氏、一柳氏 |
父母 | 九鬼隆都、一柳末彦 |
兄弟 | 九鬼隆備、大田原富清、九鬼隆義、末徳、建部秀隆、九鬼寧隆、本庄道美正室、 板倉勝敬正室、石川総邦正室ら |
妻 | 一柳頼紹娘栄子、志乃、妾蓉子 |
子 | 譲二、広岡恵三、剛、大井光衛室、 喜久子、満喜子、筏井寿夫室ら |
一柳 末徳(ひとつやなぎ すえのり)は、江戸時代後期の大名。播磨国小野藩第11代(最後)の藩主。明治維新後に華族(子爵)となり、貴族院議員(子爵議員)を務めた[1]。
経歴
[編集]丹波国綾部藩主・九鬼隆都の五男として誕生した[1]。幼名は包五郎[1]。
先代藩主・一柳末彦の養嗣子となり、文久3年(1863年)6月9日の末彦の隠居により家督を継いだ。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では早くに新政府に帰順して北越戦争に出兵する。明治2年(1869年)の版籍奉還で知藩事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で上京する。その後は慶應義塾に入って英学を学んだ。
明治12年(1879年)には東京府芝区会議長となる。明治17年(1884年)の華族令で子爵となり、その後帝国博物館員を務めた。1890年(明治23年)7月10日、貴族院議員に就任し4期ほど務め[2]、正三位勲三等に叙せられ、1920年(大正9年)1月17日に辞職した[3]。大正11年(1922年)3月7日、兵庫県明石市大蔵谷本邸にて死去した。享年73。
栄典
[編集]備考
[編集]- 子供たちには男女ともに高等教育と海外留学を薦め、自由と平等を尊重した人物であったという[5]。
系譜
[編集]長男の譲二は分家[6]、二男の恵三は他家に養子に行った[7]。継嗣とされた三男の剛は大正天皇の学友の一人であるが[5]、家督相続前に死去[8]。剛の長男の一柳末幸が家督を継ぎ、子爵となった[1]。四男の喬は夭折[9]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i 一柳貞吉 1933, p. 48.
- ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』52頁。
- ^ 『官報』第2236号、大正9年1月20日。
- ^ 『官報』第565号「叙任及辞令」1914年6月19日。
- ^ a b “小野藩主一柳末徳の三女と米国人夫の歩みたどる 小野で企画展”. 兵庫おでかけプラス (神戸新聞). (2019年2月17日) 2021年10月11日閲覧。
- ^ 一柳貞吉 1933, pp. 45, 48.
- ^ 一柳貞吉 1933, pp. 45–46, 48.
- ^ 一柳貞吉 1933, p. 46, 48.
- ^ 一柳貞吉 1933, p. 46.
参考文献
[編集]外部リンク
[編集]日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 | 子爵 (小野)一柳家初代 1884年 - 1922年 | 次代 一柳末幸 |