丈部路祖父麻呂

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丈部路祖父麻呂(『前賢故実』より)

丈部路 祖父麻呂(はせつかべ の みち の おおじまろ、和銅2年(709年) - 没年不詳)は、奈良時代の下級官吏の息子。

記録[編集]

続日本紀』巻第十七によると、大蔵省漆部司(ぬりべのつかさ)の令史(さかん)で従八位上の丈部路忌寸石勝(はせつかべ の みち の いみき いわかつ)が、泰犬麻呂とともに漆を盗んで転売し、発覚して流罪の判決を受けた。

石勝には3人の息子がいた。上から祖父麻呂(おおじまろ)、安頭麻呂(あずまろ)、乙麻呂(おとまろ)である。

是(ここ)に、石勝(いはかつ)の男(をのこ)祖父麻呂(おほぢまろ)年十二、安頭麻呂(あづまろ)年九、乙麻呂(おとまろ)七、同じく言(まう)して曰(い)はく、「父(ちち)石勝(いはかつ)、己(おのれ)らを養はむが為に司(つかさ)の柒(うるし)を盗み用ゐる。その犯(をか)せる所に縁(よ)りて遠方(をちかた)へ配役(はいえき)せらる。祖父麻呂(おほぢまろ)ら、父の情(こころ)を慰めむが為に死を冒(をか)して上陳(じゃうちん)す。請(こ)はくは、兄弟(きゃうだい)三人を没(しづ)めて官奴(くゎんぬ)とし、父の重き罪を購はむことを」といふ。

(この時、石勝の息子の祖父麻呂(おおじまろ)年十二歳、安頭麻呂(あずまろ)年九歳、乙麻呂(おとまろ)年七歳の三人が、一緒に次のように言上した。

「父の石勝は自分たちを養うために、役所の漆を盗んで流用し、その罪により遠方に配流されることになりました。祖父麻呂らは父の心情を慰めたいと思い、死を顧みずに上申いたします。どうか兄弟を官の奴の身分として没収され、父の重罪を償いたいと思います」)訳:宇治谷孟

「官奴」とは、官有の奴隷であり、「上陳」とは官司に申し出ること。「公式令」により、律令制下でも庶人も天皇に上表することができた。ただし、その場合は、文末に「死罪謹言」とつけなければならなかったという。

名例律」では、皇族や高級役人の裁判では特権が設けられていたが、八位以下の役人や庶民にはそのような特典はつけられてはいなかった。つまり、兄弟たちが「判決の変更を願い出た」というのは、命がけの行動にほかならなかったわけなのである。

刑の赦免、軽減は天皇の特権であり、この訴えは、元正天皇の手元に無事届いた。なお、流罪・死罪は太政官で審議して、書類を天皇に回覧することになってもいた。

天皇は、以下のように詔した。

「人の五常(=仁義礼智信)を稟(う)くるに仁義斯(こ)れ重く、士の百行(はくかう)有るに孝敬(かうけい)を先とす。今、祖父麻呂ら、身を没(しづ)めて奴(やっこ)と為り、父が犯せる罪を贖(あがな)ひて骨肉(こつじつ)を在らしめむと欲(す)。理(ことわり)、矜愍(あはれび)に在り。請ふ所に依(よ)りて官奴(くゎんぬ)として、即ち父石勝が罪を免(ゆる)すべし。但し、犬麻呂は刑部(ぎゃうぶ)の断(ことわり)に依りて配処(はいしょ)に発す」 (人間には常に行なうべき五つの徳があるが、仁義はとくに重要なものである。また、人間にはいろいろな行ないがあるが、親に孝をつくし敬うことはすべてに優先する。いま祖父麻呂らは自分の身を落として奴となり、父の犯罪を償い肉親を救おうとしている。道理としてあわれみをかけるべきである。よろしく願いに従って、子らを官奴とし、父石勝の罪を赦すことにせよ。ただし犬麻呂は刑部省の判決に従って配流の地に出発させる)訳:宇治谷孟

犬麻呂の場合は、家族が都に住んでいなかったため、赦免の対象にはならなかった。

以上、720年養老4年6月)の出来事である[1]

それから一月後、

祖父麻呂(おほぢまろ)、安頭麻呂(あづまろ)らを免(ゆる)して良(らう)に従へしむ[2] (祖父麻呂・安頭麻呂らを許して良民にもどした)

脚注[編集]

  1. ^ 『続日本紀』元正天皇 養老4年6月28日条
  2. ^ 『続日本紀』元正天皇 養老4年7月21日条

参考文献[編集]

  • 『続日本紀』2 新日本古典文学大系13 岩波書店、1990年
  • 『続日本紀』全現代語訳(上)講談社学術文庫、宇治谷孟:訳、1992年
  • 『日本の歴史3 奈良の都』、青木和夫:著、中央公論社、1965年

関連項目[編集]