上杉朝定 (二橋上杉家)

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上杉朝定
時代 鎌倉時代後期 - 南北朝時代
生誕 元亨元年(1321年
死没 正平7年/観応3年3月9日1352年4月23日
官位 従五位下弾正少弼
幕府 室町幕府 丹後守護引付頭人
主君 足利尊氏直義
氏族 上杉氏二橋上杉家
父母 父:上杉重顕
正室:足利高義
朝顕[要出典]、養子:顕定上杉藤成子)、
朝房?・朝宗?(上杉憲藤子)
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上杉 朝定(うえすぎ ともさだ)は、南北朝時代武将二橋上杉家[注釈 1]当主。丹後国守護

略歴[編集]

元亨元年(1321年)、上杉重顕の子として生まれる。父・重顕は早世したらしく、家督を幼くして継いだが、叔母にあたる上杉清子に保護されて彼女が生んだ足利尊氏直義兄弟に仕えた[注釈 2][1]

建武4年(1337年)に17歳で丹後国守護引付頭人に任ぜられる[注釈 3]康永3年(1344年)には尊氏・直義兄弟の姪である女性[注釈 4]を妻としていたこと[3]が知られる[4]。その一方で、同年に設置された内談方の初代頭人になるが、4年後に石橋和義に交替している事から、病弱であった可能性も指摘されている[5]

高師直と共に尊氏の執事を務めていたこともあるが、観応の擾乱が勃発すると直義方につき、尊氏・師直と戦った。ただし、同じ直義方であった一族の上杉憲顕重能兄弟とは異なり、乱勃発後に尊氏の嫡男・義詮が師直を連れて朝定邸を訪問して会談する[6]など、尊氏方への接近を疑わせる行動も取っている。この時期の朝定の行動について、早くから師直と対立関係にあった憲顕・重能兄弟と異なり最後まで尊氏・直義の和解に努めていたとする指摘[7]と朝定が健康を害しており直義と行動を供に出来ないところを尊氏側からの切り崩しの対象になっていたが最終的にはこれに応じなかったとする指摘がある[8]。正平6年/観応2年(1351年)、7月に直義が政務の引退を表明して京都を脱出した際に直義の代理として尊氏と交渉したのは朝定であり、そのまま直義に従った[9]

正平7年/観応3年(1352年)、信濃国において没したが、死因は病没とも戦死ともいわれ、はっきりしない。享年32あるいは33[注釈 5]

養子で従甥の顕定鎌倉へ下向、鎌倉扇谷に居住して扇谷上杉家の祖となる。また、犬懸上杉家の祖であった上杉憲藤(憲顕・重能の兄)の戦死後、その遺児である上杉朝房朝宗兄弟を養子にしていたと考えられている[10]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 八条上杉家扇谷上杉家の前身。
  2. ^ 後に朝定が上杉氏の菩提寺である丹波国光福寺に所領を寄進した際に清子が関与した形跡がみられ、後の室町幕府要職の抜擢も彼女の影響があった可能性がある。
  3. ^ 丹波国何鹿郡天田郡分郡守護であったとする説もある[2]
  4. ^ 異母兄高義の娘。
  5. ^ 『続群書類従』巻百五十三「上杉系図」によれば「於信州寺原被誅。年三十二歳。」、同巻百五十四「上杉系図」によれば「於信州衛原討死。三十三。」、同巻「深谷上杉系図」によれば「於信州御原御陣討死。三十三。」、『常楽記』によれば「於信州病死云々。」、「佐野本系図」によれば「於桑名被誅。三十二才。」とされている

出典[編集]

  1. ^ 阪田、2013年、P46-47
  2. ^ 今谷明『守護領国支配機構の研究』第五章「室町戦国期の丹波守護と土豪」(法政大学出版会、1986年)
  3. ^ 『師守記』康永3年8月2日条。
  4. ^ 山田、2013年、P79・95
  5. ^ 阪田、2013年、P47
  6. ^ 観応元年7月28日『祇園執行日記』。
  7. ^ 山田、2013年、P80-81
  8. ^ 阪田、2013年、P49-50
  9. ^ 阪田、2013年、P50
  10. ^ 阪田、2013年、P42・60-61

出典[編集]

  • 阪田雄一「南北朝前期における上杉氏の動向」(初出:『国史学』164号(1998年)/所収:黒田基樹 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第一一巻 関東管領上杉氏』(戒光祥出版、2013年)ISBN 978-4-86403-084-7
  • 山田敏恭「南北朝期における上杉一族」(初出:『関西学院史学』37号(2010年)/所収:黒田基樹 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第一一巻 関東管領上杉氏』(戒光祥出版、2013年)ISBN 978-4-86403-084-7