久貝正俊
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 天正元年(1573年) |
死没 | 正保5年2月2日(1648年3月25日) |
別名 | 通称:忠三郎、忠左衛門 |
戒名 | 道無 |
官位 | 従五位下、因幡守 |
幕府 | 江戸幕府 旗本寄合 |
主君 | 徳川秀忠→家光 |
氏族 | 久貝氏 |
父母 | 父:久貝正勝[1]、母:堀越氏娘 |
妻 | 宇佐美長元娘 |
子 | 正久、正世、正信、正偏 |
久貝 正俊(くがい まさとし)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・旗本寄合。御徒頭 ・目付・大坂町奉行を歴任。河内国・武蔵国に5700石を領する。主に現在の枚方市に領地を所有していた。
経歴
[編集]天正9年(1581年)、徳川家康に拝謁し、その仰せにより徳川秀忠の御付となり、その後小姓となる。慶長5年(1600年)には秀忠に付き従って上田城攻めに参戦するが、陣中で勘気を被ったため即座に関ヶ原に赴き、関ヶ原の戦い本戦で井伊直政の軍に加わり戦功を挙げる。その後、直政がその戦功のことを家康に言上したため罪を許される。
慶長10年(1605年)には徒頭となる。慶長14年(1609年)には中村一忠の死去による米子藩の改易に際し、目付として現地へ赴く。その際に一忠が所蔵していた器を大久保長安に渡しているが、慶長18年(1613年)の長安の死後に大久保長安事件と呼ばれる疑獄事件が発生し、器を渡した事に落ち度があったとして一時勘気を被った。慶長19年(1614年)から慶長20年(1615年)にかけての大坂冬・夏の陣には使番として参加した。
元和2年(1616年)1月11日に目付となる。元和5年(1619年)8月22日には、大坂東町奉行に任じられ、1500石を加増されて3000石を領し、寛永10年(1633年)に更に2000石を加増されて5000石となり、死去する慶安元年(1648年)まで奉行職を務めた。河内交野郡の倉治・津田・藤坂・杉・片鉾・田口の各村、讃良郡の村々、また武蔵にも知行地を持っていた。
寛永20年(1643年)、正俊は家臣・細谷善兵衛に戦国時代以降、戦乱によって荒廃していた長尾の八田広を再開発するよう命じる。このとき開墾された新村は福岡村(寛永21年(1644年)の検地帳によると村高52石)と名づけられ、貞享3年(1686年)村名を長尾村(元禄2年(1689年)に村高230石)と改める。のち元禄2年(1689年)長尾村内に久貝氏の拠点として長尾陣屋が置かれる。
その他
[編集]脚注
[編集]出典
[編集]- 『新訂寛政重修諸家譜』第16巻