亀井孝 (国語学者)
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人物情報 | |
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生誕 | 1912年6月3日 日本・東京府 |
死没 | 1995年1月7日(82歳没) 日本 |
国籍 | 日本 |
出身校 | 東京帝国大学文学部 |
両親 | 父:亀井高孝 |
学問 | |
時代 | 昭和 |
研究分野 | 国語学 |
研究機関 | 一橋大学 成城大学 東洋文庫 |
指導教員 | 橋本進吉 |
主な指導学生 | 田中克彦 山口謠司 大塚光子 中村喜和など |
主な業績 | 学問そのものへの批判精神 言語史の復活 |
主要な作品 | 『ことばの森』 『日本語の歴史』 『言語学大辞典』など |
亀井 孝(かめい たかし、1912年6月3日 - 1995年1月7日)は、日本の国語学者、言語学者。一橋大学名誉教授。
人物[編集]
東京府生まれ。ユーラシア史学者・亀井高孝の長男。哲学者・亀井裕は弟
慶應義塾幼稚舎、武蔵高等学校 (旧制)を経て、1935年東京帝国大学文学部卒業。1938年同大学大学院を中退し、同大助手に就任。東京商科大学(のちの一橋大学)予科非常勤講師、同教授を経て、戦後、一橋大学助教授を経て教授。1977年定年退官し、名誉教授になる。成城大学教授、1984年に東洋文庫研究員となる。
指導学生に田中克彦(一橋大学名誉教授)、山口謠司(大東文化大学教授)[1]、大塚光子(相模女子大学理事長)[2]、中村喜和(一橋大学名誉教授)など[3]。
業績[編集]
「国語学よ、死して生れよ」をテーゼとし、方法論それ自体に対する手厳しい批判精神に満ちていた[4]。いわば「学問の在り方を問う立場の飽くなき提示」という知的運動こそが、亀井の学問の真骨頂であった[4]。「技術的な方法論の適合で事足れり」とする姿勢を嫌い、日本語の実態や国学者たちの仕事にも深く身を置いた上で、言語学の批判的発展を促し続けたのである[5]。
亀井の言語研究の神髄は「人間が関わる以上、言語学の本質は言語史学である」ということにあり[注 1]、国語史に業績を残した[6]。特に日本語の音韻について研究した[7]。
中世文献からキリシタン文献まで研究していたこともあり[注 2]、貴重な古典籍の所蔵者としても知られていて、「亀井本」として利用されてきた文献資料も少なくない[6]。旧蔵の古活字版などは現在、成城大学図書館に収められている[8][9]。
著書[編集]
単著[編集]
- 『Chinese Borrowings in Prehistoric Japanese』吉川弘文館、1924年。
- 亀井高孝『詩集 松と杉』1925年。
- 『概説文語文法』吉川弘文館、1955年。
- 『亀井孝論文集 全6巻』吉川弘文館、1971-96年。
- 『ことばの森 かめいたかし』吉川弘文館、1995年7月。
- 『お馬ひんひん 語源を探る愉しみ』〈朝日選書〉1998年12月。
共編著[編集]
校註・翻訳[編集]
- 改編節用集 勉誠社 1974
- 語学資料としての中華若木詩抄(校本) 清文堂出版, 1977.3
- 語学資料としての中華若木詩抄 系譜 清文堂出版, 1980.2
- うつりゆくこそことばなれ エウジェニオ・コセリウ 田中克彦,かめいたかし共訳 クロノス 1981.6
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ^ “「日本語の不思議」に鋭く迫る多彩な”シンフォニスト” 山口謠司さん”. あの人このひと. 大東文化大学. 2019年4月12日閲覧。
- ^ 「昭和45年度 学位授与・単位修得論文」『一橋研究』第21号、一橋大学大学院生自治会、1971年7月、96-98頁、doi:10.15057/6650、ISSN 0286-861X、NAID 110007621176、2021年10月1日閲覧。
- ^ ロシア学事始め 一橋大学創立150年史準備室
- ^ a b c 山田健三 2020, p. 67.
- ^ 山田健三 2020, pp. 67–68.
- ^ a b c 山田健三 2020, p. 69.
- ^ 山田健三 2020, pp. 66–67.
- ^ 山田尚子 2018.
- ^ 山田尚子 2019.