今井五介
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今井 五介(いまい ごすけ、安政6年11月15日(1859年12月8日) - 昭和21年(1946年)7月9日)は、日本の実業家、政治家。片倉財閥家出身。片倉兼太郎の実弟。
経歴
[編集]信濃国諏訪郡三沢村(現長野県岡谷市)の片倉市助の三男に生まれる。藤森桂谷、武居用拙らに学び、1877年(明治10年)今井太郎の養子となる。1886年(明治19年)農商務省の蚕病試験場に入り、一時渡米を経て、片倉組松本製糸所長となる。
1909年(明治42年)松本商業会議所初代会頭、松本電灯社長に就任。1914年(大正3年)には信濃鉄道(現・JR大糸線)の社長に就任し、信濃大町駅-松本駅間を開通させる。また経営難に陥っていた私塾「松本戊戌学校」を支援し、「松本商業学校」として再出発させた。
1920年(大正9年)片倉製糸紡績副社長に就任。その他、大日本蚕糸会会長、全国蚕糸業組合連合会長を務め、帝国蚕糸などの設立に尽力。
1918年(大正7年)9月29日、貴族院多額納税者議員に選出され[1]、1932年(昭和7年)5月7日に辞任[2]。同年同月10日には貴族院勅選議員に任じられ[3]研究会に所属し死去するまで在任した[4][5]。戦時中は大日本産業報国会審議員となった。
次男に片倉工業大宮工場監査役から初代大宮市長となる今井五六。 現在の埼玉県立大宮高等学校の前身は五六の設立した片倉学園であり[6]、 さいたま市立大宮体育館は今井五六邸跡に建つ。 大宮の地域振興と発展に努める。 大宮の氷川参道にある三の鳥居は父五介による奉献である。
栄典
[編集]- 1940年(昭和15年)11月10日 - 紀元二千六百年祝典記念章[7]
家族・親族
[編集]- 片倉市助(父) - 実業家
- 片倉権助(叔父) - 実業家
- 初代片倉兼太郞(兄) - 実業家
- 片倉光治(兄) - 実業家
- 二代目片倉兼太郞(弟) - 実業家
- 片倉俊太郞(従弟) - 実業家
- 林利三郞(従弟) - 実業家
- 今井眞平(長男) - 実業家
- 今井五六(二男) - 政治家
- 尾澤琢郞(娘婿) - 実業家
- 熊谷直樹 (娘婿) - 医学博士、熊谷岱蔵弟
- 三代目片倉兼太郞(甥) - 実業家
- 片倉勝衛(従甥) - 実業家
- 片倉直人(従甥) - 実業家
- 尾澤金藏(孫) - 実業家
- 尾澤金一(義孫) - 実業家
系譜
[編集]片倉市助 | 片倉兼太郞 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
片倉光治 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
今井五介 | 五介の長女 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
琢郞の長女 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
尾澤琢郞 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
尾澤金一 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
尾澤金藏 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
今井眞平 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
今井五六 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
片倉兼太郞 | 片倉兼太郞 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
片倉権助 | 片倉俊太郞 | 片倉勝衛 | |||||||||||||||||||||||||||||||
片倉直人 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
林利三郞 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
- 赤地に太字が本人、緑地が片倉家の歴代当主である。
- 係累縁者が多いため、今井五介の親族に該当する著名人のみ氏名を記載した。
- 片倉佐一は、片倉市助の四男であり、片倉家の家督を継承すると、二代目兼太郞を襲名した。
- 片倉脩一は、片倉佐一の長男であり、片倉家の家督を継承すると、三代目兼太郞を襲名した。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 『長野県歴史人物大事典』郷土出版社、1989年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。