伏見博英
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博英王 伏見博英 | |
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伏見宮家・伏見伯爵家 | |
伏見博英少佐(1940年代) | |
続柄 | |
称号 | 海軍少佐(死後1階級昇進) |
身位 | 王 → 伯爵(華族) |
敬称 | 殿下 → 閣下 |
出生 | 1912年10月4日 東京府東京市 |
死去 | 1943年8月21日(30歳没) セレベス島 |
配偶者 | 柳沢豊子(先妻) |
黒田定子(後妻) | |
子女 | 伏見博孝(養子) |
父親 | 伏見宮博恭王 |
母親 | 博恭王妃経子 |
伏見 博英(ふしみ ひろひで、1912年〈大正元年〉10月4日 - 1943年〈昭和18年〉8月21日)は、日本の皇族、華族、海軍軍人。第二次世界大戦時に太平洋戦線で戦死。最終階級は海軍少佐。爵位は伯爵。臣籍降下以前の名は博英王(ひろひでおう)。
略歴
[編集]1912年10月4日に誕生。伏見宮博恭王の第4王子。香淳皇后(昭和天皇后)の再従弟にあたる。
海軍兵学校(第62期)卒業。同期に同じく戦死した皇族軍人の音羽正彦少佐など。
最上級生のときは、ノーブルな雰囲気ながらも下級生が何かヘマをやろうものなら「待て! 貴様!」と鉄拳をふるう、やや御気性の荒っぽい宮様だったという[1]。
1932年(昭和7年)10月3日、貴族院皇族議員に就任[2]。1936年(昭和11年)4月1日に臣籍降下して貴族院議員の資格が消滅し[3]、昭和天皇から伏見の家名を賜り、伯爵に叙せられる。第3連合通信隊司令部に属していたが、1943年8月21日、セレベス島南部ボネ湾上空で乗機が撃墜され戦死し、海軍少佐に特進する。
墓は青山霊園の警視庁墓地。伏見伯爵家の家督は、兄華頂博信の子で博英の養子となっていた伏見博孝が継いだ。
栄典
[編集]血縁
[編集]- 父:伏見宮博恭王
- 母:徳川経子(公爵徳川慶喜九女)
- 兄弟:博義王 - 恭子女王 - 博忠王 - 博信王 - 敦子女王 - 知子女王 - 博英王
- 養子:博孝(兄・博信王の次男)
- 妻:柳沢豊子(1916年 - 1939年、伯爵柳沢保承三女)
- 子:元子(堂本泰三夫人)
- 子:誓寬(俗名・和子、京都得浄明院の住職)
- 後妻:黒田定子(男爵黒田長和長女)
- 再従姉:香淳皇后
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 『親王・諸王略傳』博 [博英] - ウェイバックマシン(2019年1月1日アーカイブ分)[リンク切れ]
- 伏見宮家御家族の写真アルバム[信頼性要検証]
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 | 伯爵 伏見家初代 1936年 - 1943年 | 次代 伏見博孝 |