佐々木正宜

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佐々木 正宜と表記する文献もある[1]1857年安政4年[2])- 1922年大正11年)8月9日[2])は、日本の剣術家流派水府流称号大日本武徳会剣道範士

生涯[編集]

常陸国水戸に生まれる。佐々木家の先祖は水戸藩第2代藩主・徳川光圀側室に上がっており、光圀直筆の手紙を掛軸にしたものが伝わっていた[3]。正宜の父は秀五郎正明といい、母は水戸藩弓術師範糠田久右衛門廣明の娘であった。正宜は2歳の時父と死別し、叔父の軍八郎正時に養育された。正時は無念流剣術の師範役であり、正宜は幼少より同流の手ほどきを受けた。

1867年慶応3年)、水府流の豊島源之丞に入門。1874年明治7年)には東京に出て直心影流榊原鍵吉に入門し、それぞれ剣術を修業した。地元水戸東武館では内藤高治門奈正とともに稽古した。

1876年(明治9年)、警視庁に奉職。翌1877年(明治10年)、西南戦争に従軍し各地を転戦する。戦後、警視庁撃剣世話掛を務め、1894年(明治27年)には朝鮮甲午農民戦争(東学党の乱)に出役し、居留民守備にあたった。

後に鹿児島に移住し、1911年(明治44年)には大日本武徳会九州地方の代表として大日本帝国剣道形制定の委員を務めた。子に佐々木季邦(剣道範士九段)がいる。

称号[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 村上晋編『大正武道家名鑑』6頁、平安考古会
  2. ^ a b 「佐々木正宣」『剣道事典 技術と文化の歴史』351頁。
  3. ^ 月刊剣道日本』1984年4月号54頁、スキージャーナル

参考文献[編集]

  • 村上晋編『大正武道家名鑑』6頁、平安考古会(1921年)
  • 月刊剣道日本』1984年4月号、スキージャーナル
  • 中村民雄『剣道事典 技術と文化の歴史』島津書房、1994年。