元安橋

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元安橋
欄干
原爆投下前の市中央部
同心円の中心が爆心地で最も近い左下が元安橋
基本情報
所在地 広島県広島市中区
左岸:大手町、右岸:中島町
交差物件 太田川水系元安川
座標 北緯34度23分38秒 東経132度27分13秒 / 北緯34.39389度 東経132.45361度 / 34.39389; 132.45361
関連項目
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元安橋(もとやすばし)は、広島県広島市元安川にかかる道路橋

概要

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元安川の名はこの橋の名称にちなんで付けられたと伝えられている。原爆ドーム広島平和記念公園を結ぶ橋の1つである。上流側に元安川と本川(旧太田川)の分流点と相生橋、下流側に平和大橋がある。

安土桃山時代木橋として築造されたものを、1920年に鋼橋に永久橋化、1945年原爆被災の際、爆心地より約130mに位置し爆心地から最も近い橋であったが、落橋を免れた。その被災状況から、爆心地特定の手がかりとなった。戦後も長く使用されてきたが、1992年に架け替えられた。日本百名橋の1つ。

被爆当日に被爆者がこの橋付近で特に多く亡くなっており、毎年8月6日夜に犠牲者を弔う灯籠流しが行われている。

諸元

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現橋
  • 路線名 : 広島市道中1区218号線[1]
  • 橋種 : 2径間連続鈑桁橋
  • 橋長 : 56.4m[2]
  • 幅員 : 16m[1]
旧橋

被爆当時の橋の諸元を示す。

  • 橋種 : 3径間ゲルバー鈑桁[† 1][3]
  • 橋長 : 49.9m[2]
  • 幅員 : 6.95m[2]

歴史

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安芸国広島城所絵図。左から3番目の川に唯一の橋が元安橋。
安芸国広島城所絵図。左から3番目の川に唯一の橋が元安橋。

毛利氏による築造から藩政期まで

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最初の架橋年度は不明であり、安土桃山時代毛利輝元広島城下を整備した時に架橋され、橋名を「元康橋」に名づけられたと伝えられている[2]。橋名の由来は、輝元の叔父である毛利元康(末次元康)が架橋工事を指揮した[2]ため、あるいは元康の屋敷に続く通りに架けられた[4]ためとも言われる。

なお輝元は1589年(天正17年)3月から現地調査、1590年(天正18年)末に広島城ほぼ竣工、1591年(天正19年)1月8日に入城、1600年(慶長5年)長州藩転封している[5]。よってこの橋の架橋年度は1589年から1590年代初期と推定される。さらに元康は1592年(文禄元年)文禄・慶長の役に出陣していることから、もし元康が工事を指揮していたのなら1589年から1591年の間に架橋されたことになる。江戸時代に書かれた毛利氏時代の町割絵図の『芸州広島御分国八州之時御城下屋敷割并神社仏閣割共図』には輝元入城の1891年に架けられた猿猴橋京橋とともに描かれている[6]ことから、その2橋と同時期に架橋された可能性がある。

いくつか小集落があったがほとんど何もない海辺だったこのあたりも、築城に伴い城下町が整備され、商工業者が集まり経済が活性化され、船着場が出来て盛んな交易が行われた[5]

毛利氏の後に入封した福島正則藩政時代に、山陽道(西国街道)を城下に引き込みこの橋は西国街道筋の橋となった[7]

当時は防犯上の理由により橋の架橋は制限されており[8]、この橋は元安川に唯一架けられた西国街道筋の橋[† 2]となった[9]1644年正保元年)ごろ作成の『正保城絵図』中の「安芸国広島城所絵図」(右参照)では「元安川」表記であることから、それより前の江戸時代初期には現在の橋名に改められている[† 3]と考えられる。

江戸時代の治水状況から考えると数度落橋した可能性がある。例えば1796年(嘉永8年)、城下を襲った洪水では右岸側の中洲最上流部が決壊し中島町全域で床上浸水し、元安橋も落橋した記録が残っている[11]

近代から被爆前まで

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画像外部リンク
広島県立文書館所有の戦前の絵葉書。木橋時代。
[絵葉書](広島元安橋)
[絵葉書](広島元安橋)
[絵葉書](広島元安橋)
[絵葉書](広島元安橋)
画像外部リンク
広島県立文書館所有の戦前の絵葉書。大正8年水害による落橋状況と、工兵隊による仮橋。
[絵葉書]((広島)右ハ元安橋墜落ノ跡左ハ同所下流ニ工兵隊ノ架橋セル船橋) -
1930年ごろの広島市の地図。
1930年ごろの広島市の地図。
1930年ごろの下流側から。
1930年ごろの下流側から。

明治時代に入って國道四號(現国道2号)筋の橋となり、戦後まで国道として利用された[4]。大正初期時点で、長さ28間(約50.9m)、幅4間(約7.27m)[4]。このあたりは広島を代表する繁華街として栄えたが、大正時代中期に入ると繁華街の中心が市の東部へ移りはじめたので、橋の周辺では往年の盛り場の雰囲気がなくなり、木造平屋の民家が広がる庶民的な街となった[12][4]

1919年(大正8年)、洪水の被害により木橋は落橋した[11][13]。落橋の翌年である1920年(大正9年)、同位置に「元安川橋」として鋼ゲルバー鈑桁橋が架けられた[14]。総工事費は当時のお金で80,666円[14]。両岸の親柱上にしゃれた球形の飾り照明、その間には照明灯が設けられた[2]。1915年(大正4年)広島県立商品陳列所(現在の原爆ドーム)建築や1921年(大正10年)元安橋東詰の本通りスズラン灯が常設[15]されるなどこの橋近辺は大正ロマンを醸しだしていた[2]

1926年(大正15年)、再び架け替えられた[2]。これは1920年架橋のものと同デザイン・同サイズの橋[2][14]であり、後の被爆時に存在した橋である[2]

1941年(昭和16年)太平洋戦争に入ると、金属類回収令により鋼製欄干などはすべて軍事供出され、親柱の上には石灯籠の点灯箱に、欄干も石に替えられた[2]。なお主要幹線道路ということから、この橋にはガス管[16]や水道管[17]が添架されていた。

原爆による被爆

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被爆後のジオラマ。球体は爆心を表す。爆心直下の橋が元安橋で、その中洲たもとの小さな建物が燃料会館。
被爆後のジオラマ。球体は爆心を表す。爆心直下の橋が元安橋で、その中洲たもとの小さな建物が燃料会館。
三村明が撮影した米軍映画撮影隊による物理的被害状況映像。
状況

1945年(昭和20年)8月6日相生橋を目印として原子爆弾リトルボーイ』が投下され、島病院上空を爆心地として炸裂した[18]。元安橋はそこから約130mに位置し、爆心地からもっとも近い橋となったが、爆風に耐え落橋から免れた[19]

同時刻にこの付近にいた人間は、高熱線を浴び衝撃波によって吹き飛ばされ、多数が即死した[20]。左岸側の大手町および右岸側の中島町は壊滅した。橋の周辺は火と煙が充満し[21]壊滅状態で凄惨を極め[22]、後には火熱から逃れ川まで避難してきた被爆者が力尽きて息絶えた死体が累々と横たわった[20]。ちなみに当時、西詰の燃料会館(現在の広島市レストハウス)地下にいて、被爆直後における爆心地附近の状況を知るほとんど唯一の生き証人となった男性は、この橋を渡らず北にある相生橋の連絡橋を渡り西へ逃げている(当該項目も参照)。彼は避難の際に橋上で一人被爆者を目視している[23]。また別の避難者は、橋上で電報配達人、子どもを2人抱いた母親が被爆死しているのを目視している[24]

橋の被害状況/爆心地特定

上記のとおり落橋は免れている。具体的な被害は、欄干・親柱上の笠石および火袋が左右相反方向にずれ欄干のみが川に落下した[3][19]ことと、この付近のみ間知石積の護岸が6箇所崩壊した[25]ぐらいだった。被爆直後から同年9月下旬まで科学的な手法による爆心地の調査が行われ、この橋の欄干および笠石の状況から「爆心地は橋の延長線上の上空に位置する」と特定された[26]

当時、爆心地近くには6つ(架橋中も含めると7つ)橋梁があった。これらの橋は、同年8月原爆被災、同年9月大型の枕崎台風、同年10月小型ながら枕崎と同コースを通った阿久根台風と、立て続けに災害にあった。その中で元安橋は爆心地から最も近い位置にありながら、少ない被害で耐えている。被災の概略は以下のとおり[27]

表記について
○:落橋せず、△:甚大な被害を受けたが落橋せず、×:落橋

橋名 爆心地から
の距離 (m)
種類 河川名 落橋状況 備考
原爆 台風
元安橋 130 鋼橋 元安川
相生橋 300 鋼橋 本川 T字橋
本川橋 410 鋼橋 本川 ×
新橋
(仮新橋)
450
(470)
木橋 元安川 ×
(共に焼失)
- 平和大橋
新大橋 620 RC橋 本川 × 西平和大橋
万代橋 880 鋼橋 元安川

原爆による被害が小さかった原因として、鋼橋であったため熱線により焼失しなかったこと、衝撃波が真上からかかったため[19]橋が動かなかった[† 4]ことが考えられている。また相生橋と同様に衝撃波が川面に反射し下から圧迫した[29]可能性もあるが、この場合真上からかかる衝撃波を打ち消す方向であるため被害に至らなかったと考えられる。

台風による被害は、元安川上流の元安橋と萬代橋は無事で、下流の明治橋南大橋が落橋していることから、元安川上流部だったことが幸いだった可能性が高い。

戦後から現在まで

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戦前の絵手紙
左記絵手紙と同方向から(2008年)

戦後、補修しながらも長く供用されていた。1947年(昭和22年)原爆十景に、翌1948年(昭和23年)原爆記念保存物に指定され、観光利用[30]されることになった。1977年(昭和52年)から国の太田川高潮対策事業に伴い護岸整備が始まった[† 5][31]

その後高潮対策事業に伴う護岸整備および橋の老朽化に伴い架け替えが決まり、被爆した親柱4基・中柱4基を利用し、大正時代竣工当時を再現したデザインとすることが決定した[2]。鋳物の電灯が用いられ[32]また橋脚を1基減らし1つとなり橋長は長くなり幅員も拡幅された。1989年(平成元年)から着工、1992年(平成4年)再開通した[2]。総事業費10億2千万円[33]

周辺

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相生橋(左)と原爆ドームと元安橋(右)
1988年の平和公園周辺。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成写真は旧橋。

旧橋の中柱2基は、市が設置した原爆被災説明板と共に東詰下流側にモニュメントとして置かれている。これは現橋架け替えの際に橋脚を1つ減らした関係から余ったため再利用したもので、これら旧橋の親柱・中柱は現在爆心地から最も近い位置に現存する被爆遺構[† 6]にあたる。これらを用いて各研究機関は広島原爆の放射線量の研究を現在でも行っている。

旧橋の欄干の一部はここからかなり離れた袋町小学校平和資料館の方に置かれている。これは1983年行われた元安川護岸工事の際に、河床から発見されたもの。同じく被爆瓦も川から発見されている。

東詰北側には広島市道路元標が置かれている。元々は藩政時代、城下の交通の中心として里程の基点であり、明治以降「広島市里程元標」から「広島市道路元標」へと継承された。

東詰南側にはアクアネット広島の「広島リバークルーズ」と「世界遺産航路」の元安桟橋がある。

東詰交差点をそのまま東へ進むと大手町通り鯉城通り本通りがある。交差点を北へ行くと原爆ドーム広島市民球場、広島商工会議所などがある。西詰にレストハウスがあり、広島平和記念公園へと続く。道沿いにそのまま西に行くと本川橋にたどり着く。

観光地として整備されており、ステージ状の護岸やオープンカフェが周辺にある。

脚注

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注釈
  1. ^ コンピュータのなかった時代に長い橋を設計するにあたり考え出された。不静定構造の連続桁の中間に、ヒンジ構造を設けることにより静定構造にした桁構造。
  2. ^ 1710年(宝永7年)時点での西国街道筋の橋は西から、
    己斐橋(己斐川(山手川))・川田橋(福島橋/川添川(福島川))・小屋橋(天満橋/小屋川(天満川))・猫屋橋(本川橋/猫屋川(本川))・元安橋・平田屋川小橋(平田屋川)・流川小橋(流川)・京橋京橋川)・猿猴橋猿猴川)・大須橋(河川名不明)[9]
    その他でも、神田橋(神田川(京橋川))・横川橋(天満川/雲石街道筋)ぐらいしか架橋されていない。当時の城下町の状況は、広島城が所蔵する『広島城下絵屏風』や『芸州広島図』で確認できる[10]
  3. ^ 元々の「康」の字は、東照大権現(徳川家康)との関係から広島藩主浅野長晟(正室振姫)が入封した年には遅くとも改名していた可能性が高い。よって福島正則が入封した1601年から1619年の間に元安橋に改名していると思われる。
  4. ^ 近くの木製電柱が爆風の損害なくそのまま残っていたことが確認されている[28]。また原爆ドームも同様の理由により倒壊しなかったと考えられている。
  5. ^ 建設省(当時)は1977年から1999年まで周辺の護岸整備工事を行ったが、河床や護岸から遺骨は発見されていない[31]。被爆後河原で死体が焼かれたが、地元住民がほとんどの遺骨を原爆供養塔に納めていたため発見されなかったと指摘されている[31]
  6. ^ 元安橋:爆心地から130m、原爆ドーム:爆心地から160m
出典
  1. ^ a b 広島市路線網図提供システム
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m 平和資料館
  3. ^ a b 原爆戦災誌、251頁
  4. ^ a b c d 広島案内記』吉田直次郎、1913年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9478022014年6月20日閲覧 
  5. ^ a b 原爆戦災誌、6頁
  6. ^ しろうや!広島城 第24号” (PDF). 広島城公式. 2013年3月19日閲覧。
  7. ^ 商店街PR”. 広島商工会議所. 2011年5月15日閲覧。
  8. ^ しろうや!広島城 第20号” (PDF). 広島城公式. 2012年8月5日閲覧。
  9. ^ a b 資料 10「京橋会館とその周辺の沿革等に関する資料」” (PDF). 広島市. 2011年5月14日閲覧。
  10. ^ しろうや! しろうや! 広島城” (PDF). 広島城. 2011年5月8日閲覧。
  11. ^ a b 太田川水系の流域および河川の概要” (PDF). 国土交通省河川局. 2013年4月10日閲覧。
  12. ^ 原爆戦災誌、7頁
  13. ^ 広島の歴史的風景” (PDF). 広島県立文書館. 2012年8月5日閲覧。
  14. ^ a b c 本邦道路橋輯覧 第1輯 桁橋之部 鋼鈑突桁橋』(PDF)内務省土木試験所(原著1939年)http://library.jsce.or.jp/Image_DB/s_book/jsce100/pdf/07897/07897_05.pdf2013年3月27日閲覧 なお数字は尺貫法で書かれている。
  15. ^ 原爆戦災誌、8頁
  16. ^ 原爆戦災誌、757頁
  17. ^ 原爆戦災誌、279頁
  18. ^ 原爆戦災誌、35頁-36頁
  19. ^ a b c ヒロシマ壊滅の記録”. 広島市. 2011年5月8日閲覧。
  20. ^ a b 原爆戦災誌、262頁
  21. ^ 原爆戦災誌、280頁
  22. ^ 原爆戦災誌、261頁
  23. ^ 原爆戦災誌、279-280頁
  24. ^ 原爆戦災誌、1403頁
  25. ^ 原爆戦災誌、40頁
  26. ^ 原爆戦災誌、36頁
  27. ^ 原爆戦災誌、251-252頁
  28. ^ 原爆戦災誌、1361頁
  29. ^ 相生橋”. 広島市. 2011年5月8日閲覧。
  30. ^ 広島の復興と原爆遺跡”. 広島市. 2011年5月8日閲覧。
  31. ^ a b c 川に今も被爆者の遺骨あるの?”. 中国新聞 (2007年6月25日). 2011年5月8日閲覧。
  32. ^ 鋳物のある風景”. 情報処理推進機構. 2011年5月8日閲覧。
  33. ^ ヒロシマの記録1992 5月”. ヒロシマピースメディア. 2011年5月8日閲覧。

参考資料

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関連項目

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外部リンク

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