公子弘
ウィキペディアから無料の百科事典
公子弘(こうしこう、生没年不詳)は、中国春秋時代の秦の公子。姓は嬴。秦の穆公と穆姫のあいだの子であり、秦の康公の弟にあたる。晋の献公の外孫であり、晋の恵公・文公の外甥にあたる。
生涯
[編集]韓原の戦いにおいて秦が晋の恵公を捕虜とすると、公子縶は、恵公を殺害すべきであると建議した。穆姫は、太子罃(後の康公)・公子弘・簡璧を連れ立ち、焼身自殺して穆公を諌めようとし、秦と晋の関係を再考させた[1]。最終的に、穆公は、恵公を釈放した。
脚注
[編集]- ^ 『列女伝』巻2「秦穆公姫」:穆姫者,秦穆公之夫人,晋獻公之女,太子申生之同母姊,與惠公異母。賢而有義。獻公殺太子申生,逐群公子。惠公號公子夷吾,奔梁。及獻公卒,得因秦立。始即位,穆姫使納群公子曰:「公族者,君之根本。」惠公不用,又背秦賂。晋饑,請粟於秦,秦與之。秦饑,請粟於晋,晋不與。秦遂興兵與晋戰,獲晋君以歸。秦穆公曰:「掃除先人之廟,寡人將以晋君見。」穆姫聞之,乃與太子罃、公子宏,與女簡璧,衰絰履薪以迎。且告穆公曰:「上天降災,使兩君匪以玉帛相見,乃以興戎。婢子娣姒,不能相教,以辱君命。晋君朝以入,婢子夕以死。惟君其圖之。」公懼,乃舎諸靈臺。大夫請以入,公曰:「獲晋君以功歸,今以喪歸,將焉用!遂改館晋君,饋以七牢而遣之。穆姫死,穆姫之弟重耳入秦,秦送之晋,是為晋文公。太子罃思母之恩,而送其舅氏也,作詩曰:「我送舅氏,曰至渭陽,何以贈之?路車乗黄。」君子曰:「慈母生孝子。」詩云:「敬慎威儀,維民之則。」穆姫之謂也。頌曰:秦穆夫人,晋惠之姊。秦執晋君,夫人流涕,痛不能救,乃將赴死,穆公義之,遂釋其弟。