内藤清次

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内藤清次
時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕 天正5年(1577年
死没 元和3年7月1日1617年8月2日
別名 宗太郎(仮名
墓所 東京都台東区の西福寺
神奈川県座間市の宗仲寺
官位 従五位下、若狭
幕府 江戸幕府 書院番頭奏者番老中
主君 徳川家康秀忠
氏族 内藤氏
父母 内藤清成:不詳
兄弟 清次清政正勝、女(木造某室)、女(伊沢政信正室)、女(日向政成室)、女(小浜光隆正室)、女(松平親良室)
正室内藤家長の娘
娘(金森重頼正室)
養子:清政
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内藤 清次(ないとう きよつぐ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将大名徳川氏の家臣。高遠藩内藤家2代(3代とする説あり)。

生涯[編集]

天正5年(1577年)、徳川氏の家臣・内藤清成の長男として誕生する。

慶長9年(1604年)の徳川家光の山王神社初詣をはじめ、翌年の徳川秀忠上洛に同行するなど信任を受ける。慶長12年(1607年)には家光の傅役を命じられた。大坂夏の陣では書院番頭を務め、のちに奏者番元和2年(1616年)には老職(後の老中に相当)に就任する。父・清成同様、政治面で重用され、草創期の江戸幕府を支えた。

所領・官位としては、はじめ常陸国に5000石を与えられ、慶長5年(1600年)には従五位下若狭守に叙任。慶長13年(1608年)、父の死により遺領2万1000石を継ぎ、合計2万6000石を領した。

元和3年(1617年)、41歳で死去した。男子がなかったため、家督は次弟の清政が継いだ。

参考文献[編集]

  • 新宿歴史博物館編集『内藤清成と高遠内藤家展』(財)新宿区生涯学習財団 2008年
先代
内藤清成
大名 2万6000石
相模国常陸国上総国下総国内)
1608年 - 1617年
次代
内藤清政