前川芳男
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前川 芳男(まえかわ よしお、1941年11月20日 - 2024年4月26日)は元プロ野球審判員。2010年まで審判部特命顧問。
来歴・人物[編集]
横浜市立桜丘高等学校から専修大学、興亜電工、横浜ナショナルサービスを経て1967年パシフィック・リーグ審判部入局。後に審判部副部長となった五十嵐洋一(1998年退職)とは同期生である。審判員袖番号は25(1977年初採用から。ただし、審判員指導員に転じた1998年以降は空き番。当時パ・リーグでは審判は指導員に転じると袖番号を返上するという暗黙のルールがあったため)。
順調にキャリアを積み、1978年から1995年までほぼ毎年、パリーグの審判の代表として日本シリーズの審判を務め、そのうち1979年は江夏の21球で有名となった第7戦の球審を務めたしてとして後年にも語り継がれている。1995年審判部長就任。1998年4月7日で現役と同時に部長職も退き指導員に転任したが、2005年1月1日付で指導員兼任として部長再就任。引退後に部長として復帰したのは異例である。
2006年からは指導員を返上し、審判部長としての業務に専念した。2010年セ・パ審判部の統合により、部長職を返上し特命顧問に就任。同年特命顧問を退職。
引退後はプロ野球マスターズリーグで活躍していた。2024年4月26日、82歳で死去[1]。
前川とマスク[編集]
- 前川がインサイドプロテクターに変更したのは1986年から。変更してしばらくは昔ながらのバーマスクで球審をしていたが、マスクも途中からフレームマスクに変更。前川愛用のフレームマスク上部にはビニールテープが巻かれてある。本人曰く「日よけと雨よけ、ナイター設備の光でボールが見え難くなるのを防ぐ為に巻いてある。」との事である。
審判出場記録[編集]
- 初出場:1967年8月13日、東映対近鉄22回戦(神宮)、右翼線審
- 出場試合数:3009試合
- オールスター出場:6回(1974年、1975年、1978年、1983年、1986年、1991年)
- 日本シリーズ出場:16回(1978年~1988年、1990年~1992年、1994年、1995年)
(記録は1998年シーズン終了時点)
出典[編集]
- ^ “元パ・リーグ審判部長の前川芳男氏が死去 「江夏の21球」の1979年広島-近鉄第7戦で球審を務める”. サンケイスポーツ. (2024年4月30日) 2024年4月30日閲覧。