南部義茂
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時代 | 江戸時代 |
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生誕 | 文政元年(1818年) |
死没 | 天保8年12月28日(1838年1月23日) |
改名 | 富五郎(幼名)→義茂 |
別名 | 弥六郞(通称) |
墓所 | 鍋倉城跡二の丸遠野南部家墓所 |
主君 | 南部利済 |
藩 | 陸奥国盛岡藩 |
氏族 | 八戸氏→南部氏 |
父母 | 父:南部義堯、母:側室 |
兄弟 | 義茂、済賢 |
子 | 養子:済賢 |
南部 義茂(なんぶ よししげ)は、江戸時代の武士。陸奥国盛岡藩家老。遠野領主。遠野南部家(根城南部家、八戸氏)10代当主(31代当主)。
略歴
[編集]文政元年(1818年)、遠野南部家(根城南部家、八戸氏)9代当主(30代当主)八戸義堯の子として、陸奥国盛岡城内遠野屋敷に生まれた。幼名は「富五郎」。母は側室。[1]
文政13年(1830年)5月3日に父義堯が死去し、6月に藩主利済に家督相続を許された。公式の生年の文化12年(1815年)は、家督相続時に当時の成年16歳に達していたとするための創作で実際は13歳、或いは10歳程度の年齢であったとされ、弟の富三郎(後の済賢)より3歳年下、或いは同年齢だったと伝わる。[2]
富五郎は病弱だったため、実際は実年齢が上で、体も壮健な弟の富三郎を当主にすべきと主張する家臣もいた。[2]相続時の生年の操作は藩主利済の黙認があった。[1]家督相続にあたり、父義堯が家督を争った義恭支持派の家臣の処分が解除され、禄高を元に戻された。[2]
文政13年(1830年)8月に名を先祖代々の通称に改めて「南部弥六郞」と名乗る。天保8年(1838年)9月17日、遠野領主として初めて入封し鍋倉城(鍋倉館)に入る。11月に盛岡の屋敷に帰還し12月28日死去。享年21。