吉田長三郎

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よしだ ちょうざぶろう

吉田 長三郎
生誕 田中長三郎
(1877-03-17) 1877年3月17日
東京府
死没 没年不明
国籍 日本の旗 日本
出身校 慶應義塾高等科
職業
子供 横山康吉
田中長兵衛
親戚
栄誉
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吉田 長三郎(よしだ ちょうざぶろう、1877年3月17日 - 没年不明)は二代目・田中長兵衛の実弟。兄を補佐し田中鉱山株式会社の取締役を務めた。

略歴[編集]

官省御用達商人として軍への糧食や鉄材の調達を担っていた田中長兵衛の三男として1877年(明治10年)、後の京橋区に生まれる。長兄の安太郎とは19歳、三姉のきちとも11歳離れた末っ子で、母・みなの実家である吉田家を継いで吉田長三郎となった。慶應義塾幼稚舎[注 1]より高等科[3]に進み、1897年(明治30年)[4]の卒業後は当時田中家の家業となっていた鉱山業に従事。1901年(明治34年)11月に実父・長兵衛が死去すると兄の安太郎が家督を相続し二代目・長兵衛を襲名した。明治三十七八年戦役において長三郎は出征。従六位、勲六等を授与される[5][6]

1917年(大正6年)4月、それまで長兵衛の個人経営だった田中商店が株式会社化。田中鉱山株式会社となり、長三郎は監査役に就任[7]。2年後の1919年には取締役に就任した[8]。日本初の民間製鉄所を立ち上げ、一時は国内鉄生産量の過半数を占めた田中家の鉱山製鉄事業だったが、戦後恐慌関東大震災[注 2]など様々な要因が重なり1924年(大正13年)3月に経営破綻。同月、二代目長兵衛が病没する。

1930年(昭和5年)三男の勇吉が渡米しサウスダコタ州立大へ。同年、四男の康吉を子供に恵まれなかった横山長次郎[注 3]の養子に出す。この頃長次郎は参松合資会社を経営しており、長三郎は1932年(昭和7年)に設立された関連会社・株式会社三松商店の監査役[10]を務めた[注 4]。横山家に入った康吉は安川第五郎の長女・敏子を妻とし、1941年(昭和16年)に長男・久一が誕生。長次郎没後は参松の社長を長く務めた[14]

家族[編集]

  • 妻・うた(1884年生)は東京府・森實の叔母[5]
  • 長男・正(マサシ、1904年10月16日生)は東京帝国大学経済学部及び日本音楽学校卒業[15]。東北帝国大学及び日本音楽学校の講師かつバリトン歌手[16]。井上織子、岩村和雄に師事した。女性合唱団を主催し、エロイーズ・カニングハムの妹・ドリスも参加[17]。第二次大戦後は国際音楽学校で教鞭をとる[18]
  • 二男・健吉(1908年生)は京都帝国大学を卒業し、絹織物の輸出や馬牛の輸入などを手掛ける商社、野澤組の畜産部長を務めた[19][20]
  • 三男・勇吉(1911年生)はサウスダコタ州立大学卒。1934年(昭和9年)に米国から帰国し、その後も現地で使っていた通称名・リカルドを名乗った[21]農林省通訳官。
  • 四男・康吉(1913年生)は横山長次郎の養子となり慶應義塾へ進学。米国ボストン・カレッジ卒業後に参松工業を継ぐ。
  • 長女・弘子(1917年生)は府立第六高等女学校卒。
  • 五男・壮吉(1921年生)は昭和第一商業に在籍した[22]
  • 六男・直吉(1923年生)
  • 七男・良吉(1926年生)


脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 1892年の夏は鎌倉光明寺で夏季合宿が開かれ、約50名が参加し主に勉強と水練が行われた。長三郎は1.8km以上泳げた4名の筆頭にその名を挙げられている[1]。幼稚舎は1897年(明治30年)の学制改革までは小中学校を併せたような形態であり、中学生相当の者の方がむしろ多かった。長三郎は1894年7月卒業[2]
  2. ^ 1923年の大震災以降、長三郎は少なくとも1938年まで、その長男・正も同じく1942年までは芝区三田一丁目の故田中長兵衛邸(後の消防庁第一方面本部)を住所とした。同邸は終戦後進駐軍に接収されたと推定される。長兵衛の長男・長一郎も1929年まで同住所である事が確認できるが、1933年には南品川に移っている[9]
  3. ^ 長次郎は義兄・横山久太郎の長男であり、血縁上は長三郎の甥に当たるが、年齢差は3つしかない。
  4. ^ 同社では甥の田中長一郎も取締役に就いている[11]。長三郎は1937年(昭和12年)に光学機器や録音機器の製造販売を主とする昭和工業株式会社の取締役[12]、1938年には川口鑄工株式会社の代表取締役にも就任した[13]

出典[編集]

  1. ^ 『稿本慶応義塾幼稚舎史』慶応義塾幼稚舎、1965年、167-168頁。NDLJP:9545073/101 
  2. ^ 『稿本慶応義塾幼稚舎史』慶応義塾幼稚舎、1965年、128頁。NDLJP:9545073/81 
  3. ^ 慶応義塾 編『慶応義塾総覧』(大正11年)、1922年、223頁。NDLJP:940250/116 
  4. ^ 慶応義塾 編『慶応義塾塾員名簿』(大正13年)、1924年、204頁。NDLJP:1119436/107 
  5. ^ a b 帝国秘密探偵社 編『大衆人事録(全国篇)』(12版)、1937年、東京 p.730。NDLJP:1686316/483 
  6. ^ 大蔵省印刷局 編『官報』第7035号、7頁、1906年12月10日。NDLJP:2950378/21 
  7. ^ 鉱山懇話会 編『日本鉱業名鑑 改訂』1918年、32頁。NDLJP:951205/49 
  8. ^ 大蔵省印刷局 編『官報』第2163号、付録 2頁、1919年10月20日。NDLJP:2954276/19 
  9. ^ 交詢社 編『日本紳士録』(37版)、1933年、タの部 435頁。NDLJP:2130739/277 
  10. ^ 『帝国銀行会社要録』(21版)帝国興信所、1933年、東京府 302-303頁。NDLJP:1137540/303 
  11. ^ 『帝国銀行会社要録』(24版)帝国興信所、1936年、東京府 390頁。NDLJP:1114781/358 
  12. ^ 大蔵省印刷局 編『官報』第3289号、22頁、1937年12月17日。NDLJP:2959775/29 
  13. ^ 大蔵省印刷局 編『官報』第3454号、付録 9-10頁、1938年7月9日。NDLJP:2959945/26 
  14. ^ 人事興信所 編『日本職員録』(13 上)、1970年、さ117頁。NDLJP:2997131/427 
  15. ^ 東京音楽協会 編『音楽年鑑』(昭和8年版)音楽世界社、1932年、89頁。NDLJP:1211504/60 
  16. ^ 楽報社 編『音楽年鑑』(昭和3年版)大平洋書房、1927年、13頁。NDLJP:1127059/36 
  17. ^ 楽報社 編『音楽年鑑:楽壇名士録』(昭和4年版)竹中書店、1928年、p.70(ジエヌ・セシリエンヌ合唱団の項)。NDLJP:1127174/47 
  18. ^ 音楽之友社,音楽新聞社 編『音楽年鑑』(昭和29年版)音楽之友社、1954年、336頁。NDLJP:2471912/227 
  19. ^ 畜産技術連盟 編『全国畜産関係者名簿』(昭和45年版)、1969年、521頁。NDLJP:2523400/291 
  20. ^ 『産経会社年鑑』(3版)産業経済新聞社年鑑局、1962年、430頁。NDLJP:2522048/492 
  21. ^ 『判例総覧』 民事編 2巻、帝国判例法規出版社、1949年、454-455頁。NDLJP:1349798/251 
  22. ^ 帝国秘密探偵社 編『大衆人事録』(11版)、1935年、ヨ之部 83頁。NDLJP:8312058/1977