吉良満氏
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時代 | 鎌倉時代後期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 弘安8年11月17日(1285年12月14日) |
別名 | 足利上総三郎 |
戒名 | 開山檀那自省公大禅定門 |
官位 | 上総介、従五位下、左衛門尉 |
幕府 | 鎌倉幕府 越前国守護 |
主君 | 宗尊親王→惟康親王 |
氏族 | 三河吉良氏 |
父母 | 父:吉良長氏、母:覚了院本成大姉 |
兄弟 | 満氏、今川国氏、女子(土御門顕方室)、女子(上野義有室) |
妻 | 足利泰氏娘 |
子 | 貞氏、貞義、荒川貞弘、女子(北条時国室) |
吉良 満氏 / 足利 満氏(きら みつうじ / あしかが みつうじ)は、鎌倉時代後期の武将・御家人。三河国西条領主。越前国守護[1]。妻は足利泰氏の娘[2]。上総介、従五位下、左衛門尉[3]。
生涯
[編集]『吾妻鏡』には建長4年(1252年)4月1日、新将軍宗尊親王の鎌倉入りの随兵として登場するのが最初で、正嘉元年(1257年)から廂番、正元2年(1260年)には昼番衆として表れる。弘長3年(1263年)8月の記事を最後に『吾妻鏡』から名前が見えなくなるが、三河国吉良庄(現・愛知県西尾市)へ帰ったらしい。
文永8年(1271年)、吉良庄に東福寺の円爾を招き、実相寺を創建した(『聖一国師年譜』『元享釈書』)[4][注 1]。
文永の役後、防備体制強化の一環として、越前国守護に任ぜられた[1]。鎌倉時代に足利氏の庶流で守護になったのは満氏が唯一であり、異例の人事だった。
弘安7年(1284年)、北条時宗が出家、死去。この頃、満氏も出家した(『尊卑分脈』)[4]。直後に、足利家時が自害[4]、北条時国[注 2]が殺された[5]。
弘安8年(1285年)11月17日、鎌倉で霜月騒動が起こり、子・貞氏(足利上総三郎)が殺された(『鎌倉年代記』裏書)[5][注 3]。貞氏の跡は、その弟・貞義が継いだ[5]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 足利市史編さん委員会 編『近代 足利市史』 第一巻《通史編 原始〜近代(二)》、足利市、1977年3月1日 。(要登録)
- 「吉良町史 原始・古代・中世前期」
- 「吉良町史 中世後期・近世」
- 谷口雄太『足利将軍と御三家 吉良・石橋・渋川氏』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー559〉、2022年11月1日。ISBN 978-4-642-05959-6。
- 柳史朗「吉良氏十五代記」(1977年)
- 『尊卑分脈』 第三輯第十二囘、吉川弘文館、1904年6月25日 。