土岐頼之

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土岐頼之
土岐頼之像
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 文政9年3月27日1826年5月3日
死没 明治6年(1873年5月5日
墓所 東京都品川区北品川東海寺大山墓地
官位 従五位下美濃守山城守和泉守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家慶家定家茂慶喜
上野沼田藩
氏族 久松松平氏土岐氏
父母 父:松平定永、母:不詳
養父:土岐頼寧
兄弟 松平定和板倉勝静頼之松平近説
石川総禄正室ら
土岐頼功の三女・益子
頼知、寿賀子、鈴子
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土岐 頼之(とき よりゆき)は、江戸時代後期の大名上野国沼田藩11代藩主。沼田藩主土岐家第14代当主。

生涯

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桑名藩主・松平定永の十男で、老中松平定信の孫にあたる。

弘化4年(1847年)10月2日、沼田藩の第10代藩主・土岐頼寧の死去に際し、その養嗣子となって跡を継いだ(正室の益子は9代藩主・土岐頼功の三女)。同年10月15日、12代将軍・徳川家慶に拝謁する。同年12月16日、従五位下・美濃守に叙任する。後に山城守、和泉守に改める。文久3年(1863年)11月15日、学問所奉行に就任する。元治元年(1864年)7月6日、若年寄格学問所奉行となり、同年9月28日、若年寄となる。第二次長州征討にも幕府方に属して参戦している。

慶応元年(1865年)12月29日、若年寄を退任する。慶応3年(1867年)4月16日、病気を理由に家督を長男の頼知に譲って隠居し、明治6年(1873年)5月5日に東京で死去した。享年48。墓所は品川東海寺の大山墓地。

系譜

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父母

正室

子女