大久保忠重 (旗本)

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大久保 忠重
時代 江戸時代
生誕 慶長9年(1604年
死没 天和2年9月22日1682年10月22日
別名 四郎左衛門、一運(号)
氏族 大久保氏
父母 父:大久保忠成、母:福島五郎兵衛の女
兄弟 忠重、忠次(菅沼定俊妻)、女子(設楽貞通妻)[1]、女子(安倍信孝妻)、女子(大久保康任妻)、女子(大久保忠壽妻)、女子(大久保幸治妻)
天野雄得の娘
忠兼、服部正勝、女子(伊沢正次妻)、女子(三宅康俊妻)、女子(妻木幸広妻)、女子(松下房利妻)
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大久保忠重(おおくぼ ただしげ)は、大久保玄蕃知行所の2代目領主、上級旗本通称は四郎左衛門。

父・忠成から5000石を相続し、天和2年(1682年)に79歳で亡くなる。寛文10年(1670年)に家を継いだ時は67歳で、元和8年(1622年)から寛文元年(1661年)までの40年間は空白期間となっている[2]

歴代大久保玄蕃家では珍しく、官位を持ったとの記録は無い[2]

生涯

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  • 慶長9年(1604年)生まれる
  • 元和4年(1618年)2代将軍・徳川秀忠御目見。この時15歳
  • 元和8年(1622年)書院番士になり、のちに小姓組の番士になる
  • 寛文元年(1661年)
  • 寛文3年(1663年)
    • 4月 4代将軍・徳川家綱が日光詣りをするときに供奉。
  • 寛文8年(1668年)
  • 寛文10年(1670年)
    • 10月23日 家督を継ぐ
  • 寛文12年(1672年)
  • 延宝3(1675年)
    • 12月14日 引退する
  • 天和2年(1682年)
    • 9月22日 亡くなる。享年79

※上記年表は『新訂 寛政重修諸家譜 第十一』(1965年、P400)を参照に作成した。

知行所の出来事

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寛文10年(1670年)、駿河国益津郡内の大久保玄蕃頭領(方之上村、中里村、中村、小浜村、花沢村、馬場村、坂本村)と長崎弥左衛門領の農民が、東海道の丸子宿への助馬(助郷)の役が遠くて難儀との願書[3]を奉行に対して出している。

丸子まで4里ほど離れていて、間に日本坂という山の難所があり、それを越えて前日から丸子で待機し、当日役を勤めたら、その夜も丸子に泊まり、合計3日かかるという。

脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ 寛政重修諸家譜 第6輯』p.922 巻第千百三十五
  2. ^ a b 『新訂 寛政重修諸家譜 第十一』(1965年、P400)
  3. ^ 焼津市立図書館『焼津市近世資料集』(1987年、P102)

参考文献

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  • 『新訂 寛政重修諸家譜 第十一』(1965年)
  • 焼津市立図書館『焼津市近世資料集』(1987年)