大伴熊凝

ウィキペディアから無料の百科事典

大伴 熊凝(おおとも の くまごり、和銅7年(714年) - 天平3年(731年)は、奈良時代の地方官吏肥後国益城郡熊本県上益城郡下益城郡などにあたる)の人。

記録[編集]

万葉集』に収録された、当時筑前守であった山上憶良の歌の序によると、以下のような経歴を辿った人生であったらしい。

天平3年6月27日(731年7月21日)、18歳の時、相撲使の官位名前不明の肥後国国司の従者になり、都に向かっている(7月7日の相撲節会に間に合うように出発したもので、上り27日、下り14日の行程であるが、ここでは下りの日数で上京している)。

ところが、天運に幸を与えられずに、道中にあって疾病にかかり、そのまま安芸国佐伯郡高庭(現在の広島県廿日市市大野高畑と推定されている)の駅家にてみまかったという。

臨終の際に、長く嘆息して、こう言ったという。

「伝え聞いたところでは(地・水・火・風の四大が)仮に結合してなった人間の身は消えやすく、泡沫の命はとどめにくい。それゆえに千年に一人出るかのような聖人も既に去り、百年に一人出るかのような賢者もまたとどまらない。ましてや凡愚のいやしき者は、いかにしてうまく死から免れるのだろうか。ただ、私の老いてしまった親は、ともに草の庵にいらっしゃる。私を待って、日を過ごせば、きっと心を痛めるほど残念がるだろうし、私を望んで約束の時に帰れなかったら、必ず光を失うほどの涙を流すだろう。かわいそうな私の父、痛ましい私の母よ、この一身の死に向かう道は苦しくないが、ただ二親の生きて苦しまれることのみを悲しむだけだ。今日、永久に別れてしまったら、いずれの世にまたまみえることができるのだろうか」

以上のように語り、歌六首を作って、死んだという。

彼の死を悼んで、大宰大典であった麻田陽春が以下の2首を詠んでいる。

国遠き 道の長手を おほほしく 今日(けふ)や過ぎなむ 言問(ことど)ひもなく[1]
朝霧の 消易(けやす)き我(あ)が身 他国(ひとくに)に 過ぎかてぬかも 親の目を欲(ほ)[2]

また、上述の山上憶良が彼の思いに仮託した歌を6首詠んでいる。

うちひさす 宮へ上ると たらちしや 母が手離れ 常知らぬ 国の奥かを 百重山(ももへやま) 越えて過ぎ行き いつしかも 都を見むと 思ひつつ 語らひ居(を)れど 己(おの)が身し 労(いた)はしければ 玉桙(たまほこ)の 道の隈廻(くまみ)に 草手折(たを)り 柴取り敷きて 床(とこ)じもの うち臥(こ)い伏して 思ひつつ 嘆き伏せらく 国にあらば 父取り見まし 家にあらば 母取り見まし 世の中は かくのみならし 犬じもの 道に伏してや 命過ぎなむ[3]
たらちしの 母が目見ずて おほほしく いづち向きてか 我(あ)が別るらむ[4]
常知らぬ 道の長手を くれぐれと いかにか行(ゆ)かむ 糧(かりて)はなしに[5]
家にありて 母が取り見ば 慰むる 心はあらまし 死なば死ぬとも[6]
出でて行(ゆ)きし 日を数へつつ 今日今日(けふけふ)と 我(あ)を待たすらむ 父母らはも[7]
一世(ひとよ)には 二度(ふたたび)見えぬ 父母を 置きてや長く 我(あ)が別れなむ[8]

 以上の歌は熊凝の気持ちを代作したものであるが、とりわけ憶良の作は叙述が詳細で、死に行く子があとに残る親を思う煩悩に訴えるものである。

脚注[編集]

  1. ^ 『万葉集』巻第五、884番
  2. ^ 『万葉集』巻第五、885番
  3. ^ 『万葉集』巻第五、886番
  4. ^ 『万葉集』巻第五、887番
  5. ^ 『万葉集』巻第五、888番
  6. ^ 『万葉集』巻第五、889番
  7. ^ 『万葉集』巻第五、890番
  8. ^ 『万葉集』巻第五、891番

参考文献[編集]

関連項目[編集]