奈良靖彦

ウィキペディアから無料の百科事典

奈良 靖彦(なら やすひこ、1917年4月28日[1] - 2013年9月6日)は、日本外交官。駐シンガポール特命全権大使や駐カナダ特命全権大使を務めた。位階従三位

人物

[編集]

大分県出身。旧制京北中学校を経て、1941年に旧制東京商科大学一橋大学の前身)を卒業し、外務省入省。同期に西堀正弘(国連大使)、魚本藤吉郎(駐ソ連大使)、内田宏(駐大使)、吉野文六(駐大使)、人見鉄三郎(駐コスタリカ大使)など。

1943年、外務省弘報部で勤務し、戦時体制下で、ジャパンタイムズの監督を行った[2]

1965年5月シカゴ総領事に就任。着任時に、総領事公邸が外交に使うにはあまりに貧弱なものだったため、筋向いの邸宅を購入しようと考え、東京銀行のシカゴ支店長と交渉し購入資金の融資を受け、また当時大蔵事務次官を務めていた石野信一も案内した末購入し、新しい公邸とした。のちにこの公邸は、エバンストン市長から、歴史的にも芸術的文化的にも重要な建築物としてランドマークに指定された[3]

1975年の第7回日加閣僚委員会共同声明では、駐カナダ大使として、宮澤喜一外務大臣福田赳夫経済企画庁長官大平正芳大蔵大臣河本敏夫通商産業大臣とともに、日本側代表を務めた[4]

2013年9月6日肺炎のため死去[5]従三位奈良久弥(元三菱銀行副頭取、元連合三田会副会長)は弟[6]

交友

[編集]

1939年に日米学生会議にともに参加して以来、宮澤喜一(元総理大臣)や苫米地俊博(元三菱商事副社長)らと親しくなり、毎月のようにゴルフをする仲になった[7]。この日米学生会議による宮澤、奈良、苫米地らの交友については、のちに城山三郎講談社から『友情 力あり』として出版した[8]

財閥解体により苫米地が仕事に困っていた際には、野間省一講談社社長の協力を得て貿易会社・飛鳥(「奈良」から「飛鳥」を連想して命名)を設立し、宮澤の弟宮澤泰(のちに駐西ドイツ大使)なども参画したが、これは1年で倒産してしまった[9]

宮澤が総理大臣在任中の1991年11月から1993年8月までの首相動静からも、宮澤が総理大臣に就任した直後の1991年11月12日に宮澤及び宮澤の弟の宮澤泰(元駐西ドイツ大使)とともに夕食を食べているほか、1991年12月、1992年1月(ほかに平岩外四)、3月(ほかに吉國二郎)、4月18日、4月26日、9月、11月、12月、1月、3月13日、3月21日、5月、7月と頻繁に宮澤とゴルフをしていることがうかがえる[10]

略歴

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ 『人事興信録 第25版 下』(人事興信所、1969年)な8頁
  2. ^ ジャパンタイムズ2007年3/月22日
  3. ^ 社団法人霞関会会報平成18年1月号、同昭和57年10月
  4. ^ 日本政府か関与した重要共同コミュニケ及びその他の外交文書 外務省
  5. ^ 「奈良靖彦氏が死去 元駐カナダ大使 」日本経済新聞2013/9/13
  6. ^ 朝日新聞1984年11月21日
  7. ^ 朝日新聞1991年10月28日、AERA1991年10月29日、朝日新聞1992年04月25日
  8. ^ 城山三郎『友情 力あり』(講談社文庫,1993年)
  9. ^ 魚住昭 「軍国主義者は排除せよ…追い込まれた講談社「窮余の一策」とその失敗」 現代ビジネス 2019年11月24日
  10. ^ 首相動静・1991-1993年