奥宮慥斎

ウィキペディアから無料の百科事典

おくのみや ぞうさい

奥宮 慥斎
生誕 奥宮忠次郎[1]
文化8年7月4日1811年8月22日
土佐国土佐郡布師田村(高知県高知市布師田)
死没 明治10年(1877年5月30日
東京府下谷御徒町東京都台東区上野
死因 胃腸カタル
墓地 谷中霊園天王寺墓地
国籍 日本の旗 日本
別名 通称:周次郎、諱:正由、字:子道、別号:晦堂[1]
教育 田内菜園、佐藤一斎
著名な実績 大祓復活、両忘会設立
流派 陽明学
影響を受けたもの 佐藤一斎今北洪川
影響を与えたもの 岩崎弥太郎中江兆民
肩書き 土佐藩士、文学教授、高知藩大属、教部省大録
政党 愛国公党
運動・動向 自由民権運動
宗教 臨済宗
配偶者 熊、美留
子供 奥宮正治、健吉、健之
奥宮正樹、尾立兵蔵姉
テンプレートを表示

奥宮 慥斎(おくのみや ぞうさい)は、幕末土佐藩の学者で、維新後高知藩教部省官僚。

土佐藩士の家に生まれ、田内菜園に国学江戸佐藤一斎陽明学を学び、幕末には藩校教授、山内豊範侍読を務め、土佐勤王党を支援した。明治維新高知藩板垣退助による藩政改革、教部省での大祓復活に関わったほか、愛国公党結成に参加し、今北洪川両忘会を結成した。

経歴

[編集]

修学時代

[編集]

文化8年(1811年)7月4日、土佐国土佐郡布師田村高知県高知市布師田)に土佐藩士奥宮正樹の子として生まれた[1]。15,6歳の時田内菜園に入門し、国学和歌を学び、また弓術を得意とした[1]

文政13年(1830年)閏3月江戸に出て、吉田環を介して佐藤一斎に師事しようとしたところ、父と病に罹り、快復後一旦帰郷し、天保3年(1832年)江戸を再訪し、一斎に入門した[1]。帰国後、南学の天下にあった土佐において南部静斎、市川彬斎、岡本寧浦等と陽明学の普及に務め、尾崎源八、都築習斎、島本黙斎等を弟子とした[1]

天保5年(1834年)高知の真如寺大休和尚に借りた「碧巌録」で疑団と格闘し、3月16日「陸象山先生集」を読書中省悟に至った[2]

幕末

[編集]

嘉永末年の動乱期に当たり、藩主山内豊熈に救国の方策を上書したところ、重臣に疎まれ、嘉永7年(1854年)8月12日[3]奥向夫人附広敷役として江戸に左遷され、佐藤一斎、若山勿堂安積艮斎大橋訥庵、河田廸斎等と親交した[1]

安政4年(1857年)の門人帳には、島本審次郎、石川潤次郎小畑孫次郎、吉井茂市、秋沢貞之、北代正臣小笠原謙吉吉松速之助、島村源六の名が見える[4]

安政6年(1859年)1月暇を得て帰国すると、8月藩校教授役兼侍読に抜擢され、藩主山内豊範に従い江戸に戻り、藤森天山塩谷宕陰安井息軒羽倉簡堂芳野金陵等と交流したほか、山内容堂が鮫洲に蟄居した際、度々宴に招かれた[1]

万延2年(1861年)帰国し、文久3年(1863年)免官、元治元年(1864年)官に復し、藩主に従い大坂に行き、10ヶ月余で帰国した[1]平井善之丞小南五郎佐々木高行武市半平太大石弥太郎土佐勤王党の人物と交流してこれを支援し、小畑美稲、小畑孫三郎、門田為之助、丁野遠影、吉永良吉、秋沢清吉、依岡城雄、長岡謙吉北代正臣島本仲道、淡中新作等を弟子とした[1]

慶応元年(1865年)12月教授兼侍読を罷免され、100日間の幽閉に処された[1]

高知藩時代

[編集]

明治2年(1869年)文学教授に復し[1]、明治3年(1870年)1月10日諭俗司都教に任命され、3月9日から4月17日まで藩西部で名主層に宣教を行った[5]

明治3年(1870年)春「皇朝身滌規則」を起草し、5月15日上京、福羽美静等に掛け合い、6月27日斎藤利行の推挙で神祇官権大史に任命された[6]。また、フルベッキと出会って宗教を論じ、自身の見識を深めた[7]

間もなく板垣退助に高知藩の藩政改革への協力を求められ、11月25日神祇官を辞任、板垣、福岡孝弟と船で帰藩し、12月15日藩大属書記係に就任した[8]。「人民平均の理」を起草した[9]。明治4年(1871年)1月6日大属学校係、2月27日戸籍社寺係を歴任し、3月18日から4月7日まで「喩俗大意」「喩俗 人間霊魂自由権利訳述」「皇朝身滌規則」を携えて土佐東部を巡回した[10]

教部省時代

[編集]

明治5年(1872年)2月30日上京、教部省設置に伴い3月24日九等出仕、3月25日記録課、5月4日編集課、5月24日八等出仕、6月27日日誌課、7月28日大教院調掛、8月30日大録となった[11]。明治5年(1872年)福羽美静に自身の大祓復活案が認められ、式部寮と調整を行った[12]

明治6年(1873年)1月24日、キリシタンの活動が活発化した長崎への出張を命じられ、中教院の設置を進めたが[13]、2月24日禁教令が解かれたことにより現場で混乱が生じたため、4月下旬真意を量るため急遽帰京、代理として物集高見が九州に派遣された[14]。11月25日大講義兼務を解かれ、27日教部省考証課に配属された[15]

明治6年(1873年)民撰議院設立建白書の修正潤飾に関わり、明治7年(1874年)1月10日愛国公党結成に参加した[16]

明治7年(1874年)5月11日から9月6日まで第四大学区広島県鳥取県島根県北条県小田県愛媛県山口県浜田県を巡回したが、6月14日山口中教院で今北洪川に出会い[17]、明治8年(1875年)10月20日今北洪川を盟主として両忘会を結成した[18]

明治9年(1876年)11月2日教部省教務課に移ったが、明治10年(1877年)1月11日教部省は廃止された[15]。卿部省では、福羽が離れた後も、中村光枝を通して知った吉見幸和の実事神道に基づく建言等を行ったが[19]、新たに上層部となった黒田清綱三島通庸等薩摩閥には受け入れられなかった[20]

没後

[編集]

明治10年(1877年)5月30日胃腸カタルのため下谷御徒町の自宅で死去し、谷中霊園に葬られた[21]

大正時代二度に渡り贈位の申請がなされたが、三男奥宮健之大逆事件で処刑された影響で実現しなかった[22]

家族

[編集]
  • 父:奥宮正樹
  • 母:尾立兵蔵姉。文政元年(1818年)6月26日35歳で没[23]
    • 長姉:小枝(秋、高) - 文化3年(1806年)生。山本考庵妻[23]
    • 次姉:麻 - 文化6年(1808年)生。山本有徳妻[23]
    • 本人:奥宮慥斎
    • 妻:慶応元年(1865年)から2年の間に死去した。名は熊と美留(竹村銘蔵妹)の2伝わっており、同一人物か後妻がいたか不明[23]
    • 妹:猪佐 - 文政6年(1823年)生。西森久米之進妻[23]
    • 弟:奥宮暁峰 - 中央官僚、教師[23]。暁峰二男 - 奥宮衛(海軍少将・横須賀市長)[24]
    • 弟:奥宮岩治正時 - 27歳で病没[23]

5代目子孫・奥宮正太郎は神奈川県在住[25][26]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l 杉山剛 2013, p. 17-20
  2. ^ 杉山剛 2013, p. 231-233.
  3. ^ 杉山剛 2013, p. 189.
  4. ^ 杉山剛 2013, p. 194-195.
  5. ^ 杉山剛 2013, p. 32-36.
  6. ^ 杉山剛 2013, p. 50-52.
  7. ^ 杉山剛 2013, p. 51-54.
  8. ^ 杉山剛 2013, p. 71-74.
  9. ^ 杉山剛 2013, p. 77-78.
  10. ^ 杉山剛 2013, p. 36-40.
  11. ^ 杉山剛 2013, p. 126.
  12. ^ 杉山剛 2013, p. 128-135.
  13. ^ 杉山剛 2013, p. 171-173.
  14. ^ 杉山剛 2013, p. 173-17.
  15. ^ a b 杉山剛 2013, p. 127
  16. ^ 大久保利謙 1989.
  17. ^ 杉山剛 2013, p. 241.
  18. ^ 杉山剛 2013, p. 244-245.
  19. ^ 杉山剛 2013, p. 137-138.
  20. ^ 杉山剛 2013, p. 144-146.
  21. ^ 島 2012b, p. 2.
  22. ^ 島 2009a, p. 2.
  23. ^ a b c d e f g h i j k l 杉山剛 2013, p. 21-24
  24. ^ 人事興信所編『人事興信録』第6版、1921年 p.171
  25. ^ 西郷隆盛の真筆漢詩を寄贈 高知市民図書館に産経新聞9月19日
  26. ^ 奥宮慥斎の子孫が高知市民図書館に西郷隆盛直筆の漢詩寄贈高知新聞2015年9月20日[リンク切れ]

参考文献

[編集]

外部リンク

[編集]
  • 『奥宮慥斎日記』