孝静帝
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孝静帝 元善見 | |
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東魏 | |
皇帝 | |
王朝 | 東魏 |
在位期間 | 天平元年10月17日 - 武定8年5月8日 (534年11月8日 - 550年6月7日) |
都城 | 鄴 |
姓・諱 | 元善見 |
諡号 | 孝静皇帝 |
生年 | 正光5年(524年) |
没年 | 天保2年12月10日 (552年1月21日) |
父 | 元亶 |
母 | 胡智 |
后妃 | 高皇后 |
年号 | 天平 : 534年 - 537年 元象 : 538年 - 539年 興和 : 539年 - 542年 武定 : 543年 - 550年 |
孝静帝(こうせいてい)は、北朝東魏唯一の皇帝。姓は元、諱は善見(ぜんけん)。
生涯
[編集]北魏の清河文宣王元亶の嫡男で、清河文献王元懌の孫、孝文帝の曾孫にあたる。母の胡智は胡寧の娘で、霊太后の従姪、また孝明帝の皇后胡氏の従姉妹(かつ孝明帝自身の又従姉妹)にあたる。
永熙3年(534年)に通直散騎侍郎に任ぜられた。8月には驃騎大将軍・開府儀同三司となる。孝武帝が渤海王高歓の排除に失敗して関中に入り、宇文泰に保護されたため、洛陽には皇帝が不在となった。このため10月に高歓は元善見を皇帝として擁立し、天平と改元した。この時孝静帝はわずか11歳で、実質的な権力は高歓が掌握した。趙郡王元諶を大司馬に、咸陽王元坦を太尉に、高盛を司徒に、高昂を司空にそれぞれ任じた。間もなく鄴に遷都した。長安では宇文泰が程なく孝武帝を殺害して元宝炬(文帝)を擁立し、以後は孝静帝の東魏と文帝の西魏が並立する状況となった。また、孝静帝の実父の清河王元亶は東魏において天平3年末(西暦で537年初め)まで存命であったが、死後に至るまで単なる諸侯王としてのみ礼遇された。
武定5年(547年)に高歓が死去すると、その長男の高澄が高歓の職を全て引き継いだ。高澄は孝静帝の動静を崔季舒を通じて逐一報告させ、「朕は朕でも狗脚の朕」と孝静帝を侮辱し、また崔季舒が孝静帝を殴打する事件が起こった。これらのことを憎んだ孝静帝は、元瑾・劉思逸・元大器・元宣洪らと密かに共謀し、高澄を誅殺すべく企んだ。しかし計画は察知されて、孝静帝は含章堂に幽閉され、共謀者たちは市で煮殺された。
武定7年(549年)に高澄が奴隷の蘭京の私怨を買って殺害されると、これを知った孝静帝は「大将軍(高澄)の死は天の意である。魏の帝室の権威は必ずや復興しよう!」と左右の者に打ち明けた[1]。しかし、直後に次弟の高洋が蘭京を誅殺し、早々に事態を収拾して兄の地盤を引き継ぐと、青ざめた様子で「あの者もまた朕とは相容れぬ。朕の命もいつまで持つであろうか」と嘆いたという[2]。武定8年(550年)1月に高洋は斉郡王となり、2月には斉王に上った。5月に相国・総百揆となった高洋によって、孝静帝は禅譲を迫られた。ここに東魏は滅び、北斉が建てられた。
帝位を譲った元善見は中山王に封ぜられて、1万戸を与えられた。しかし、天保2年12月(552年1月)に毒酒で殺された。享年28。3人の子もまた殺された。鄴の西の漳北に葬られたが、後に暴かれて陵墓は崩壊した。
宗室
[編集]拓跋部 | (1)拓跋毛 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(13)拓跋鄰 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(14)拓跋詰汾 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
禿髪匹孤 | (15)拓跋力微 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(南涼) | (16)拓跋沙漠汗 | (17)拓跋悉鹿 | (18)拓跋綽 | (東部)拓跋禄官 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(中部)拓跋猗㐌 | (19)拓跋弗 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
代 | (1)拓跋猗盧 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(2)拓跋普根 | (5)拓跋賀傉 | (6,8)拓跋紇那 | 拓跋六脩 | (4)拓跋鬱律 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
3拓跋? | (7,9)拓跋翳槐 | (10)拓跋什翼犍 | 拓跋孤 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
拓跋寔君 | (追)拓跋寔 | 拓跋窟咄 | 拓跋斤 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
北魏 | (1)道武帝 拓跋珪 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(2)明元帝 拓跋嗣 | 清河王 拓跋紹 | 陽平王 拓跋煕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(3)太武帝 拓跋燾 | 淮南靖王 拓跋他 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(追)景穆帝 拓跋晃 | 東平王 拓跋翰 | (4)南安王 拓跋余 | 元鍾葵 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(5)文成帝 拓跋濬 | 南安王 拓跋楨 | (僭)元法僧 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(6)献文帝 拓跋弘 | 中山王 元英 | 章武王 元彬 | 扶風王 元怡 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(7)孝文帝 元宏 | (追)先帝 元羽 | 北海王 元詳 | (追)文穆帝 元勰 | 章武王 元融 | (11)東海王 元曄 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
廃太子 元恂 | (12)節閔帝 元恭 | (僭)北海王 元顥 | (追)孝宣帝 元劭 | (10)孝荘帝 元子攸 | (13)安定王 元朗 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(8)宣武帝 元恪 | (追)武穆帝 元懐 | 清河王 元懌 | (僭/追)文景帝 元愉 | (僭)汝南王 元悦 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(9)孝明帝 元詡 | 臨洮王 元宝暉 | (西1)文帝 元宝炬 | 清河王 元亶 | (14)孝武帝 元脩 | 馮翊公主 元氏 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(僭)孝明帝女児 元氏 | (僭)幼主 元釗 | (西2)廃帝 元欽 | (西3)恭帝 拓跋廓 | (東1)孝静帝 元善見 | (北周1)孝閔帝 宇文覚 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
后妃
[編集]男子
[編集]- 元長仁(皇太子)
- 他2人の子がいたが、不詳。
- いずれも文宣帝に賜死とされた。