孫逖

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孫 逖(そん てき、696年? - 761年)は、中国の詩人。河南府鞏県の出身。

経歴[編集]

襄邑県令の孫嘉之の子として生まれた。幼いころから文才があり、機知に富んでいた。15歳のとき、雍州長史の崔日用に会った。崔日用が孫逖に土火爐賦を作らせたところ、孫逖は賦を一気に書き上げてみせ、賦詞も素晴らしい出来映えであった。崔日用は驚いて、交友するようになった。開元初年、哲人奇士として推挙され、山陰県尉に任じられた。秘書正字に転じた。10年(722年)、文藻宏麗科に及第し、左拾遺に抜擢された。張説に才能を認められ、その門下で遊び、左補闕となった。

黄門侍郎の李暠(李神通の子の李孝節の孫)が太原府に出向すると、孫逖はその下で従事となった。入朝して起居舎人となり、集賢院修撰をつとめた。玄宗が群臣を集めて宴会を開いたとき、宰相の蕭嵩が「天成」・「玄沢」・「維南有山」・「楊之華」・「三月」・「英英有蘭」・「和風」・「嘉木」の8の詩題を出したが、孫逖はみごとに完成させてみせた。21年(733年)、考功員外郎となった。顔真卿李華蕭穎士・趙驊らを抜擢した。24年(736年)、中書舎人に転じた。父が死去したため、辞職して服喪した。29年(741年)、喪が明けると、再び中書舎人となった。天宝3載(744年)、判刑部侍郎となった。病のため解任され、太子左庶子に転じた。病が治らなかったため、太子少詹事とされた。上元年間に死去した。広徳2年(764年)、尚書右僕射の位を追贈された。は文といった。

詩人としての彼[編集]

代表的作品に、『宿雲門寺閣(雲門寺の閣に宿る)』(五言律詩)がある。

宿雲門寺閣
香閣東山下 香閣(こうかく) 東山の下(もと)
煙花象外幽 煙花(えんか) 象外(しょうがい)に幽なり
懸灯千嶂夕 灯(ともしび)を懸(か)く 千嶂(せんしょう)の夕べ
幕幔五湖秋 幔(とばり)を巻く 五湖(ごこ)の秋
画壁余鴻雁 画壁 鴻雁(こうがん)余り
紗牕宿斗牛 紗牕(しゃそう) 斗牛(とぎゅう)宿れり
更疑天路近 更に疑う 天路の近きかと
夢与白雲遊 夢に白雲と遊ぶ

子女[編集]

伝記資料[編集]

  • 旧唐書』巻190 列伝第140中 文苑中
  • 新唐書』巻202 列伝第127 文芸中

出典[編集]