宇都宮貞綱
ウィキペディアから無料の百科事典
時代 | 鎌倉時代中期 - 後期 |
---|---|
生誕 | 文永3年(1266年)[1] |
死没 | 正和5年7月25日(1316年8月13日)[1] |
改名 | 貞綱、蓮昇(法名)[1][2] |
官位 | 従五位上[1][2]、三河守[1][2]、下野守[1][2]、備前権守[1][2] |
幕府 | 鎌倉幕府 引付衆[1][2] |
氏族 | 宇都宮氏 |
父母 | 父:宇都宮景綱[1][2]、母:安達義景の娘[1] |
兄弟 | 貞綱、三鶴丸(三観丸)[2]、泰宗[2] |
妻 | 北条長時の娘[3] |
子 | 高綱(公綱)[2][3]、高貞(公貞・綱世)[2][4]、冬綱 |
宇都宮 貞綱(うつのみや さだつな)は、鎌倉時代中・後期の武将。鎌倉幕府御家人宇都宮氏第8代当主。宇都宮景綱の子[1][2]。母は安達義景の娘[1]。興禅寺を開基したことで知られる。北条氏得宗家(鎌倉幕府第9代執権)の北条貞時の偏諱を受けて[5]貞綱と名乗る。
略歴
[編集]弘安4年(1281年)の元寇の弘安の役では8代執権・北条時宗の命を受けて山陽、山陰の6万もの御家人を率いて総大将として九州に出陣した[1]。その功績により戦後、引付衆の一人に任じられた[1]。
時宗の死後は北条貞時に仕えて嘉元3年(1305年)、嘉元の乱では貞時の命を受けて北条宗方誅殺に協力した[1]。
正和元年(1312年)、亡母の13回忌に全国的にも珍しい巨大鉄製塔婆を奉納した(宇都宮市清巌寺蔵:国の重要文化財)と言われている。
正和5年(1316年)7月25日、51歳にて死去した[1]。法名は蓮昇[1][2]、法号は興禅寺。