宋神道

ウィキペディアから無料の百科事典

ソン シンド[1]

宋 神道[1]
송 신도
生誕 (1922-11-24) 1922年11月24日
大日本帝国の旗 日本統治下朝鮮忠清南道[1]
死没 (2017-12-16) 2017年12月16日(95歳没)
受賞 第9回多田謡子反権力人権賞(1997年)
栄誉 1000人のピースウーマン(2005年)
テンプレートを表示

宋 神道(송 신도、ソン シンド、1922年11月24日 - 2017年12月16日)は、宮城県に在住していた在日朝鮮人女性。

人物[編集]

朝鮮半島の忠清南道論山郡出身[2]。日本の宮城県生活保護受給者として生活していたが、1992年1月に元従軍慰安婦を公募する市民団体に連絡し、元「従軍慰安婦」としての活動を開始する。翌年には市民団体と「在日の慰安婦裁判を支える会」を発足し、日本政府に謝罪と損害賠償1億2000万円を求めて訴訟(在日韓国人元従軍慰安婦謝罪・補償請求事件)を開始する[3]が2008年に全面敗訴した。(ただし、1938年から1945年まで宋が慰安婦であったことは認定された。)この活動が認められて1997年12月に第9回多田謡子反権力人権賞を受賞した。なお、日常生活では日本人の通名を使用していた[4]

生涯[編集]

本人の証言によれば、1922年、朝鮮忠清南道で生まれるが、12歳の時に父親と死別。1938年、16歳の時に母親の決めた男性と婚礼をあげたが、結婚生活に嫌気がさして、嫁ぎ先から逃げ出して友人宅などを転々とする日々を過ごしていたところ、大田で知人の朝鮮人女性に「嫁になど行かなくても、戦地に行って働けば金になり、一人で生きて行ける。戦地へ行って御国のために働かないか」と話を持ちかけられ、戦地の意味も仕事の内容も分からないまま平壌に向かった[5]ところ、新義州の紹介所と言われる場所で高(コウ)という朝鮮人男性の仲介で慰安所に入ったが、この際の代金が宋の借金とされたため、宗は「騙された」としている。宋の証言によれば、慰安婦としての生活は、日本人からの暴行により聴覚を失い、死産を繰り返し[6]、出産して生まれた子供も中国人に渡して中国の戦地を転々としながら終戦を迎えた。

戦後は故郷に帰らずに、旧日本軍の男性と一緒に博多から1946年に日本に入国し、埼玉県深谷市で生活を送るが、日本人男性と別れて上京し、在日韓国人の男性と内縁関係となり、宮城県牡鹿群女川町に移住した[7]。1982年まで同居生活を続けたが、男性の死後は生活保護を受けて生活をしており、同じ戦争を経験しているのに、日本人は軍人恩給遺族年金を受けて豊かな生活をしていることに憤りを感じて、日本政府を糾弾する活動を始める[8][9]2011年東日本大震災で被災し、男性の死後に独居生活を送っていた女川町の自宅が津波で亡失したため、訴訟支援者らの助力を得て[1]、東京へ移り、韓国挺身隊問題対策協議会の保護を受けで生活しながら、日本に謝罪と賠償を求める日々を続けた[10]。2017年12月16日午後2時10分、老衰のため、東京都内の施設で死去。95歳没。

慰安婦としての活動[編集]

16歳のとき、朝鮮人のブローカーによって中国中部の武昌の「世界館」という慰安所で慰安婦を強制され、以後は「部隊付き」として歩哨も務めながら応山長安などを巡り、咸寧で日本の敗戦を知る。2回の出産を経験しており、漢口で出産した子供は近所の人に預けた後に岳州に移動している[11][12]。また、慰安所を経営する業者によって左腕に「金子」という入れ墨が彫られた[7]

日本への抗議活動[編集]

  • 1993年4月5日、日本に対し、「国会における公式謝罪」と「謝罪文の交付」「損害賠償金767億5893万7500円(ただし、金額が多すぎるため一部請求として1億2千万円に変更した[13])」を求めて東京地裁提訴2003年3月28日最高裁第二小法廷が上告棄却・上告受理棄却の決定を出し敗訴が確定した。10年におよぶ裁判の過程は、2007年公開のドキュメンタリー映画オレの心は負けてない 在日朝鮮人「慰安婦」宋神道のたたかい』に描かれた[14]
  • 2002年7月23日、参院内閣委員会で行われた「戦時性的強制被害者問題解決促進法案」の質疑を傍聴。宮城県選出の岡崎トミ子参議院議員は、宋の主張をそのまま読み上げて、日本政府を糾弾した。その後の集会で「(法案反対の)政治家は慰安婦がくたばって1人もいなくなるのを待っているのか。1日も早く謝罪を」と訴えた[15]
  • 2008年11月23日、第9回日本軍「慰安婦」問題アジア連帯会議に「被害者」として参加。「16歳で連れていかれ、殴られて両方の耳が聞こえず、言葉も通じない。妊娠、出産、死産を繰り返し、解放後も軍人にだまされ、夫婦に成りすまして日本についたとたん置き去りにされた。絶望して自殺を図ろうとしたところ助けてくれた在日朝鮮人の男性と暮らすようになった。」と話した[16]
  • 2010年11月25日に衆院議員会館で開催された日本軍「慰安婦」問題の立法解決を求める国際署名提出行動に、梁澄子尹美香吉元玉らと一緒に参加して、「けんかは好きだけど慰安婦はいや。馬鹿は死ななきゃ治らない。」などの発言を行った[17]
  • 2011年8月、第10回日本軍「慰安婦」問題解決のためのアジア連帯会議に参加するため訪韓。
  • 2011年、韓国の歴史社会学李修京は、宋の影響を受け、日本の植民地支配で行われた蛮行を告発する寄稿集「海を越える100年の記憶」を出版した[18]
  • 2011年11月26日、東日本大震災に被災していたため中断していた日本に謝罪と賠償を要求する活動を大阪で再開。「日本の政治家が慰安婦に対する賠償に関心を持たない」と非難した[19]。12月14日には梁澄子が主催する慰安婦問題解決を訴えて外務省の周りを手を繋いで囲む集会に参加している[20]。2012年8月15日に戦時性暴力問題連絡協議会と日本軍「慰安婦」問題解決全国行動2010が共催した銀座でのデモ活動(250人が参加)ではデモの先頭に立った[21]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d “被災し避難「それでも生きなけりゃ」 元慰安婦が講演”. 朝日新聞. (2011年11月27日). http://www.asahi.com/special/10005/OSK201111260131.html 2017年12月5日閲覧。 
  2. ^ wam カタログ『置き去りにされた朝鮮人「慰安婦」』(2006 年/wam)
  3. ^ 在日の慰安婦裁判を支える会とは [1] 「「慰安婦」(多数回の強かん)にされたこと、戦地で生命の危険にさらされたこと、戦後の国会答弁などによる名誉毀損、などなど...、あえて計算したところ、合わせて、なんと、767億5,893万7,500円!もの額になりました。しかしこれでは裁判の請求額としては大きすぎます。(1)の767億円の一部請求としての1億2千万円を、謝罪に追加して請求しました(1995年 第7回口頭弁論)。」
  4. ^ 『週刊金曜日』編集委員、2月10日号 辛淑玉さん、闘いは続きますね(佐高信) ”辛さんはこう答えています。「人からケアしてもらう必要がある人は、避難所にはいられません。それは、外国籍住民も同じようなものです。『従軍慰安婦』として名乗りをあげて、国と裁判を起こした宋神道さんも、避難所でやっと見つけた時には、日本名で入っていました。胸が痛かった」”
  5. ^ 証言 未来への記憶 アジア『慰安婦』証言集Ⅰ」P.45 "大田(テジョン)で、四十二、三ぐらいのばあさんが、無理して嫁御に行く必要ない、戦地さ行けば国のために働くにもいいし、とにかく結婚なんかしなくてもよし、心配ないと。なんだとかかんだとかうまいこと言ったから、その口車に乗ってそのババアにくっついて行ったわけだ。国のためって言われても分からないから。戦地と言っても分からないから。手任し足任せ。今考えたら、それが「慰安婦」になるってことだったんだよね"
  6. ^ 第9回アジア連帯会議報告 [2]
  7. ^ a b 在日元「慰安婦」(宋神道)裁判控訴審判決 (東京高裁 2000年11月30日判決) 控訴人の従軍慰安婦として受けた被害についての被控訴人の不法行為責任について
  8. ^ 第154回 参議院 内閣委員会 平成14年7月23日 第17号 9ページ 「近所には軍人恩給をもらって大威張りで暮らしている人もいます。戦地に引っ張っていくときは、お国のため、お国のためと言っておいて、今になって、なして朝鮮人だの慰安婦だの生活保護だのと差別をつけられるのか。全く意味の取れないことばかりです。だから、裁判に訴えました。」 [3]
  9. ^ 1995年 第7回口頭弁論 「戦地で人殺しした軍人が恩給もらっていばって、おれはホゴ(生活保護)もらってる、税金食ってる...って見られる、それが悔しいのよ」
  10. ^ 韓統連大阪ホームページ "東日本大震災 宋神道ハルモニ 生存確認" [4]
  11. ^ 女性に対する暴力撤廃国際デー記念シンポジウム in 京都 「労働・貧困・性暴力の鎖をきろう!」2011年11月27日(日)"発言者プロフィール" [5]
  12. ^ 在日の慰安婦裁判を支える会 宋神道さんの紹介[6]
  13. ^ 1995年 第7回口頭弁論
  14. ^ “オレの心は負けてない 在日朝鮮人『慰安婦』宋神道のたたかい”. Movie Walker. https://moviewalker.jp/mv43853/ 2017年12月5日閲覧。 
  15. ^ 元慰安婦、目頭押さえ傍聴 野党法案が審議入り 共同通信 2002/07/23 09:51 [7]
  16. ^ 第9回アジア連帯会議報告 [8]
  17. ^ 11/25日 日本軍「慰安婦」問題の立法解決を求める 国際署名提出行動[9]
  18. ^ 慰安婦証言や植民地支配の蛮行まとめる 日本で出版 2011年10月25日17時0分配信 (C)YONHAP NEWS[10]
  19. ^ 朝日新聞 2011年11月27日13時26分 被災し避難「それでも生きなけりゃ」 元慰安婦が講演 [11]
  20. ^ “外務省囲みシュプレヒコール=元慰安婦支援の団体―東京・霞が関”. 時事通信. (2011年12月14日). http://www.jiji.com/jc/zc?k=201112/2011121400478 2011年12月20日閲覧。 
  21. ^ 赤旗 2012年8月16日 「慰安婦」被害者に謝罪と賠償急いで 都内で提灯デモ [12]

参考文献[編集]

  • 北出明『風雪の歌人――孫戸妍の半世紀』講談社出版サービスセンター、2002年。ISBN 4-87601-557-0 
  • 川田文子『皇軍慰安所の女たち』筑摩書房、1993年。ISBN 4-480-81337-3 
  • 川田文子『イアンフとよばれた戦場の少女』高文研、2005年。ISBN 9784874983423 
  • 西野瑠美子金富子、女たちの戦争と平和資料館『証言未来への記憶 アジア「慰安婦」証言集Ⅰ』明石書店、2006年。ISBN 4750323209 
  • 在日の慰安婦裁判を支える会『オレの心は負けてない』樹花舎、2007年。ISBN 9784434110757 

関連項目[編集]