宮下太吉

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宮下みやした 太吉たきち
生誕 1875年9月30日
明治政府 山梨県甲府市若松町
死没 (1911-01-24) 1911年1月24日(35歳没)
大日本帝国の旗 大日本帝国 東京市牛込区市谷富久町
(現:東京都新宿区富久町)
東京監獄
職業 機械工
罪名 大逆罪
刑罰 死刑
幸吉
動機 天皇制廃止

宮下 太吉(みやした たきち、1875年明治8年〉9月30日 - 1911年〈明治44年〉1月24日)は、日本共産主義者アナキスト

現人神信仰を排する目的で明治天皇の殺害を計画し、幸徳事件の事実上の首謀者である[1]大逆罪で処刑された12名の1人でもあった。

略歴[編集]

暗殺計画[編集]

山梨県甲府市若松町の出身で、実業補習学校を卒業後は東名阪などで機械工として勤務する。

1908年(明治41年)に愛知県知多郡亀崎町(現:愛知県半田市)の「亀崎鉄工所」で勤務していたところ、幸徳秋水が製作した「平民新聞」を読み、社会主義に感化された。太吉はそのまま平民社の人士と関わるようになり、赤旗事件の後に内山愚童の「無政府共産」を読んで天皇崇拝を否定する考えを固め、1909年(明治42年)に長野県東筑摩郡中川手村(現:長野県安曇野市明科中川手)の官立「明科製材所」へ異動してすぐ、明治天皇暗殺するためとして爆弾を試作し、爆破実験まで行ったという。

最期[編集]

1910年(明治43年)5月25日、太吉は爆発物取締罰則違反容疑で逮捕された(明科事件)。太吉は同じく天皇暗殺を企てたとして逮捕された管野スガ新村忠雄古河力作と共に官憲によってフレームアップされ、大逆罪で起訴された。多数が秋水を首領にした「幸徳事件(大逆事件)」の端緒とした。

1911年(明治44年)1月18日、太吉は秋水らと共に大逆罪で有罪となり、死刑判決を受けた(当時、大逆罪は未遂・予備含めて死刑しか定められていなかった)。そして1月24日午後0時16分に市ヶ谷刑務所で処刑された。35歳没。墓所は山梨県甲府市相生三丁目の広沢寺にある。

山梨県での活動[編集]

山梨県では1906年(明治39年)に、宮崎民蔵や後に日本社会党を結成する堺利彦森近運平ら太吉と共に来県した。宮崎らは山梨県において社会主義や無政府主義を紹介し、社会変革を求める県内の名望家らから一定の賛意を得て、小作層を中心に入党者を得ていた。

しかし、明治40年の大水害と大逆事件を契機に状況は一変し、運動は萎縮した。

脚注・出典[編集]

  1. ^ 実際に計画に携わったのは4名に過ぎなかったが首謀者は宮下だった。しかし官憲は幸徳秋水を首謀者に「設定」して大がかりなフレームアップを行い、大量検挙を目指した。このため宮下はあたかも従犯のように扱われた。

参考史料[編集]

  • 大杉彦助『山梨思想運動史』
  • 小松芳郎『松本平からみた大逆事件』(信毎書籍出版センター、2001年 ISBN 4-88411-012-9
  • 渡辺順三 塩田庄兵衛共編『秘録大逆事件 春秋社 1959年

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