宮下忠子

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宮下 忠子(みやした ただこ、1937年 - )は、日本の社会活動家、著作家[1]

経歴

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熊本県から18歳で上京し、大学卒業後、高校の社会科教諭となったが、いったん退職して家庭に入った[2]。その後、東京都立社会事業学校に学び、1975年から山谷地区を抱えるの東京都城北福祉センターで医療相談員となって、アルコール依存症回復者の組織化などに取り組んだ[1]。仕事で山谷の労働者たちと接する中で、「シラミまみれ」になったり結核に罹患したりもした[2]1995年に退職するまで、城北福祉センターでの勤務は20年に及んだ[1][2]。この間に相談にのってきた労働者はおよそ3万人にのぼるという[3]

退職後は、自ら「コミュニティーワーカー」と称する路上生活者たちへの巡回相談ボランティアの活動や[4]、執筆に注力し、1996年2月20日には、東京・経営と心の開発の会から「こころの賞」を贈られた[1][5]

この間、東京都精神保健センターにおけるアルコール問題家族教育プログラムや、日本ジャーナリスト専門学校において講師を務めた[1]

おもな著書

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  • 山谷・泪橋:ドヤ街の自分史、晩声社、1978年
  • 全盲の母の記録:堀木文子の半生、晩聲社、1980年
  • 思川:山谷に生きる女たち、筑摩書房、1985年
    • (再刊)思川:山谷に生きた女たち:貧困・性・暴力もうひとつの戦後女性史、明石書店、2010年
  • 山谷日記、人間の科学社、1995年
  • 山谷曼陀羅、大修館書店、1995年
  • ミニー神父とアルコール依存症者たち:やさしいアメリカ人、東峰書房、1996年
  • 隔離の里:ハンセン病回復者の軌跡、大月書店、1998年
  • 東京のどん底から:老いゆく路上生活者の声を聴く、随想舎、2001年
  • Taraba・夜行列車に乗る:愛と命のメッセージ、随想舎、2008年
  • 赤いコートの女:東京女性ホームレス物語、明石書店、2008年
  • 「孤児」として生きて:孤独・貧困・暴力の戦後を駆けぬけた男の物語、明石書店、2012年
  • 原田キヌ考、中央公論事業出版、2014年
  • 七十七歳の軌跡:出会いは人生の宝、燦葉出版社、2015年

編著

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  • 路上に生きる命の群:現状報告:ホームレス問題の対策と提案、随想舎、1999年

脚注

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  1. ^ a b c d e 宮下忠子 プロフィール”. 明石書店. 2016年4月18日閲覧。
  2. ^ a b c 江木慎吾 (2008年5月19日). “(ニッポン人脈記)出会い橋なみだ橋:4 転落と救い、行き交う命”. 朝日新聞・夕刊: p. 1. "宮下忠子(みやしたただこ)(70)は75年から20年間、この交差点をわたった。山谷にある「城北福祉センター」の医療相談員が、彼女の仕事だった。高校の社会科教員をへて、いったん家庭に入った後、東京都の職員に応募した。… 宮下はシラミまみれになり、結核にもなった。… 18歳で熊本から東京に出て働いた宮下は、うつ病になって自殺しようとしたことがある。このとき生死の境を知ったから、どん底の話に共感できたのかもしれない。"  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
  3. ^ 芦崎治「不況風が身にしみる 東京路上生活者1500人ルポ」『アエラ』1993年11月1日、24頁。「宮下忠子さんは、これまで約三万人の労働者の相談にのってきた。大阪の釜ケ崎、名古屋の笹島などの寄せ場に行けば、かならず顔見知りがいるほどだ。」  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
  4. ^ 正 (1999年9月24日). “路上の訴え(窓・論説委員室から)”. 朝日新聞・夕刊: p. 1. "路上生活者を巡回訪問して相談にのる。宮下忠子さんはそれをコミュニティーワーカーと名付け、自ら実践している。"  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
  5. ^ “東京・山谷に力尽くして20年 宮下さんに「こころの賞」”. 読売新聞・東京朝刊: p. 23. (1996年2月4日)  - ヨミダス歴史館にて閲覧