宮中席次

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宮中席次(きゅうちゅうせきじ)とは、公的な宮中行事における席次のこと。

歴史

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明治時代以前には、公卿たちの手によって整えられた「伝統的な宮中座次」が存在した(詳細は下記「伝統的宮中座次」の節を参照)。この宮中席次に類する席次表のようなものは、明治時代から存在していた。これを1926年大正15年)の皇室儀制令によって制度化したのが、いわゆる戦前の「宮中席次」である。

本来は単なる宮中行事の席次表であったが(明治時代には「儀式上ニ限ル席次ニシテ敢テ職務上ニ関スルモノニ非ス」との但書きがあった)、内閣総理大臣臨時代理を設ける際に宮中席次最高位の閣僚が務めるなど、政治的意味も持つようになった。宮中席次による順位がポストの格のようにみられる風潮もあり、鈴木貫太郎軍令部長から侍従長に転任した際の受諾理由の一つとして「宮中席次では軍令部長のほうが侍従長よりよほど上だが、席次が下がるから受けないと思われては恥辱である」と述べている。なお、複数の席次に該当する場合は最高位のものによる。たとえば晩年の西園寺公望は、第1の大勲位、第7の首相前官礼遇、第16の公爵などに該当するが、第1の大勲位として扱われた。さきの鈴木の例では、軍令部長や侍従長よりも海軍大将としての席次が上となり、実際に席次が大きく下がるわけではなかった。

両院議長の席次が低いことは戦前から問題視され(現職議長としての席次よりも大臣前官礼遇の席次のほうが高いという事態も生じた。たとえば初代貴族院議長の伊藤博文)、大正時代には内閣から宮内省に改正申し入れがなされたこともあったが実現しなかった。

第二次世界大戦後の1945年昭和20年)12月には、貴族院衆議院両院の議長が第6位に繰り上げられるなどの改正が行われた。日本国憲法が施行された1947年(昭和22年)5月3日には皇室儀制令が廃止され、宮内府の内部規程である宮中席次暫定規程が定められた。

席次表

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皇室儀制令

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宮中席次暫定規程

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宮中席次暫定規程別表による。

1947年(昭和22年)5月3日施行時[1]
1965年(昭和40年)6月16日時点(1950年(昭和25年)7月1日宮内庁長官通知)[2]
正二位以下有位者
勲二等以下有勲者
備 考
正二位以下勲三等までは十二級職[3]の次
正四位以下勲八等までは九級職[3]の次
位勲の順位は正二位従二位勲二等(一、旭日重光章 二、宝冠章 三、瑞宝章)として三位以下之に準ずる。

伝統的宮中座次

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明治時代以前の公家社会においても宮中座次と呼ばれるものがあった。この伝統的宮中座次では先例と実情とが頻繁に衝突し、紛争が絶えなかった。徳川家康禁中並公家諸法度制定の背景の一つは、この宮中座次の紛争に終止符を打つ目的だった。幕末の宮中席次は、ほぼ次のような序列だった。

脚注

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  1. ^ 国務大臣林謙治の宮中席次の件」、内閣官房、国立公文書館(請求番号:本館-2A-028-01・類03165100)。
  2. ^ 佐藤改造内閣における閣僚の宮中席次について」、内閣官房、国立公文書館(請求番号:本館-3A-016-00・平11総01733100)。
  3. ^ a b 「十二級職」「九級職」とは、一般職俸給表一般職の職員の給与に関する法律別表第一)に定める「職務の級」を指す。おおむね、「十二級職」は本省の部長級(十三級職が局長級)、「九級職」は本省の課長級に当たる(参照:級別定数の改訂について(昭和25年・雑・地方課、調査課)一般職の職員の給与に関する法律の一部を改正する法律案要綱(公文類聚・第七十六編・昭和二十六年・第二十四巻・官規十一・俸給一))。
  4. ^ 平安時代以後、人臣に正一位が与えられた例はほとんどなく、女性である源方子と没する前日に受けた三条実美のみであるため、実質上の最高の位階である。
  5. ^ 権大納言(江戸時代に正官の大納言・中納言の任命例はない)のうち、功労者に対して退官後も引き続き権大納言の席次を許された者。ただし、現職の権大納言と比較すると上位の座次となる。

参考文献

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  • 百瀬孝著、伊藤隆監修 『事典昭和戦前期の日本 制度と実態』 吉川弘文館、1990年。
  • 李元雨 『幕末の公家社会』第四章第三節「摂家と大臣」 吉川弘文館、2005年、ISBN 978-4-642-03402-9

関連文献

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  • 西川誠「大正期の宮中席次」日本歴史648、小特集<「座次」と「席次」>、2002年5月。