富士松紫朝

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富士松 紫朝(ふじまつ しちょう)は、新内粋曲音曲都々逸名跡。本項では初代富士松紫朝について記述する。

  • 二代目富士松紫朝1860年1月25日 - 1943年2月5日) - 初代と同じく九州出身で盲目、初代の門下で紫好斎を名乗り、初代が引退したのと共に二代目を襲名。本名は古賀 城武
  • 三代目富士松紫朝 - 1936年5月に富士松佐交から三代目紫朝になった。

初代 富士松ふじまつ 紫朝しちょう→富士松 紫翁
本名 佐藤 竹次郎
生年月日 1826年6月19日
没年月日 (1902-03-01) 1902年3月1日(75歳没)
出身地 現在の日本の旗 日本福岡県久留米市
師匠 初代富士松魯中
弟子 二代目富士松紫朝
家族 新内語り

初代富士松 紫朝(ふじまつ しちょう、1826年6月19日 - 1902年3月1日)本名は佐藤 竹次郎

経歴[編集]

九州久留米出身。盲人ながら安政年間から幕末明治の初年にかけて初代富士松魯中の門人で、寄席で新内語りとして人気を得た。後に弟子に紫朝を譲り、自身は紫翁となり久留米に隠居した。墓所は久留米市妙正寺

三遊亭圓朝の「朝」はこの紫朝にちなんだものという。なお、同じ新内の名跡で富士松ぎん蝶と混合されやすく、富士松紫蝶と表記されることがある。