小笠原家長 (石見小笠原氏)
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時代 | 鎌倉時代 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 元弘3年/正慶2年3月20日(1333年5月4日) |
別名 | 四郎次郎(通称) |
戒名 | 禅林院殿 |
幕府 | 鎌倉幕府 |
主君 | 将軍:久明親王→守邦親王 得宗:北条高時 |
氏族 | 清和源氏義光流石見小笠原氏 |
父母 | 父:小笠原長親[1] 母:美夜(益田兼時の娘)[1] |
兄弟 | 家長、長光[1]、長行[1] |
子 | 長胤[1] |
小笠原 家長(おがさわら いえなが)は、鎌倉時代の武士。石見小笠原氏の第2代当主。
生涯
[編集]正和2年(1313年)、父・長親が死去。長親死去した時期は、諸国の御家人たちが諸子に所領を分与して独立させる動きを見せており、長親もその死に際して所領分与を行ったと考えられ、家長には石見国邑智郡の川本郷と村之郷が譲られた[2]。
石見国の所領を譲られた家長は、嫡男の長胤と共に阿波国から石見国の村之郷に移り住み、以後約20年に渡って川本郷と村之郷の経営に当たった[2]。
元弘3年/正慶2年(1333年)3月20日、死去[3][4]。伝承によれば、鎌倉幕府滅亡期の動乱において戦死したと伝えられている[4]。嫡男の長胤が家長の後を継いだ[2]。
脚注
[編集]参考文献
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