小笠原長次

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小笠原長次
時代 江戸時代前期
生誕 慶長20年5月25日1615年6月21日
死没 寛文6年5月29日1666年7月1日
改名 幸松丸(幼名)、長次
戒名 長松寺殿慈恵源恵公大居士
墓所 福岡県築上郡吉富町広津の天仲寺
官位 従五位下信濃守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家光家綱
播磨龍野藩主、豊前中津藩
氏族 小笠原氏
父母 小笠原忠脩円照院
兄弟 齢昭院長次
松平康重慶寿院
北の丸、利相院
長章長勝金姫森忠継正室、
慈光院覚宗玄正
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小笠原 長次(おがさわら ながつぐ)は、江戸時代前期の譜代大名播磨国龍野藩主、のち豊前国中津藩初代藩主。忠脩系小笠原家初代。

生涯[編集]

小笠原忠脩の長男として生まれる。父は慶長20年(1615年)5月7日の大坂夏の陣で戦死したが、長次は父親が死んだ後の5月25日に生まれた息子である。忠脩は小笠原秀政の嫡男で、本来なら小笠原本家の家督を継ぐ身分であったが[疑問点]、夏の陣で秀政・忠脩は共に戦死し、長次もまだ生まれていなかったため、小笠原家の家督は忠脩の弟で長次の叔父に当たる忠真が継ぐこととなった。生後、長次は忠真のもとで養育された。

寛永3年(1626年9月16日、長次は播磨龍野5万石に本多忠刻の正室・千姫化粧料10万石のうち1万石を与えられ、計6万石をもって入封する。寛永4年(1627年)に元服する。寛永6年(1629年)10月18日に従五位下・信濃守に叙位・任官する。

寛永9年(1632年)、2万石の加増を受けて豊前中津8万石に加増移封となる。寛永14年(1637年)には島原の乱鎮圧に参加した。藩政では新田開発に尽力した

寛文6年(1666年)5月29日に中津で死去した。享年52。跡を次男の長勝が継いだ。

系譜[編集]