小貫氏

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小貫氏
家紋
本姓 藤原北家秀郷流
家祖 小貫通伯
小貫通近
種別 武家
出身地 常陸国久慈郡小貫村
主な根拠地 常陸国久慈郡小貫村
出羽国
著名な人物 小貫頼久
凡例 / Category:日本の氏族

小貫氏(おぬきし)は日本の氏族の一つ。

家系は藤原北家藤原魚名の流れを汲み、平将門を征伐した鎮守府将軍藤原秀郷の末裔にあたる。秀郷より20代目にあたる小野崎氏第13代当主小野崎通春の次男・通伯が常陸国久慈郡小貫村にあって小貫通伯を名乗った。異説として、秀郷より4代藤原公通の三男通近を小貫氏の祖とするものもある。

佐竹家臣 小貫氏の成立[編集]

平安 ~ 室町時代[編集]

平安期小野崎氏宗家小野崎通盛通長佐竹氏に臣従して以来、小野崎氏は佐竹氏の譜代家臣として遇されてきたが、小野崎氏が佐竹氏の重臣としての地位を確立した戦いが「佐竹の乱」である。15世紀、佐竹惣領家と有力一族である山入氏との間の抗争が繰り返され、その戦いは100年間にも亘ったが、小野崎氏はこの戦いに積極的に参加し、元の国人領主としての立場から様々な曲折を経ながらも最終的に佐竹宗家を支持した。結果、小野崎氏は山入氏と完全に袂を分かち、永正元年(1504年)の山入氏の滅亡に貢献、100年の内乱は終熄した。山入氏居城の久米城には石神小野崎氏の通重が入ったが、その子の通安・通室ともに子がなかったため、同族の小貫頼重の子・定春が名跡を継いだ。

戦国・安土桃山時代[編集]

佐竹氏の内乱以降、小野崎氏は佐竹氏一門衆にも列し、小貫氏も宿老として活躍している。佐竹氏全盛期の佐竹義重義宣時代には和田昭為、一門筋に当たる人見藤道とともに佐竹家の三家老を勤めた小貫頼久を輩出する。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、主君佐竹義宣が東軍参加を渋ったことから、戦後処理で常陸国54万5000石から出羽国20万5000石に減封されるに伴い、頼久も主家に従い、秋田に転籍した。そのため、小貫氏は茨城県秋田県に多い姓である。

江戸時代[編集]

江戸時代には、秋田藩譜代重臣として軍事方、奉行勘定方、剣術指南役などを輩出している。秋田藩小貫家には、剣術砲術等の免許皆伝書などの多くの古文書が残存している。また、常陸に残った一部が水戸徳川家に仕官した。

佐竹東家家臣 小貫氏[編集]

佐竹東家家臣 安島氏の系図に佐竹東家家臣 小貫氏の記録がある。『系図 佐竹山城家人安島吉兵衛』によれば同家家臣 小貫五郎兵衛政通の女が安島吉兵衛信昌に嫁ぎ、安島林左衛門信房安島吉兵衛信忠人見庄兵衛光等の養子となる人見造酒信就安島主税信将の子らを生むという[1]

水戸藩の志士・義民たる小貫氏[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 秋田県公文書館茨城県立歴史館蔵『安島吉兵衛・同主税『系図 佐竹山城家人安島吉兵衛』参照。
  2. ^ 明田鉄男編『幕末維新全殉難者名鑑1』(新人物往来社1986年昭和61年))398頁参照。
  3. ^ 明田鉄男前掲書(新人物往来社1986年(昭和61年))235頁参照。
  4. ^ 明田鉄男前掲書(新人物往来社、1986年(昭和61年))371頁参照。
  5. ^ 明田鉄男編『幕末維新全殉難者名鑑1』(新人物往来社、1986年(昭和61年))398頁参照。
  6. ^ a b 明田鉄男編『幕末維新全殉難者名鑑1』(新人物往来社、1986年(昭和61年))416頁参照。

参考文献[編集]

関連項目[編集]