尚順
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しょう じゅん 尚 順 | |
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生誕 | 尚泰王 第四王子 尚順 1873年5月2日 琉球王国・首里 |
死没 | 1945年6月16日(72歳没) |
死因 | 戦死(沖縄戦) |
墓地 | 多磨霊園 |
住居 | 松山御殿(那覇市首里桃原町) |
国籍 | 琉球王国 → 日本 |
別名 | 松山王子 松山御殿 松山御殿一世 鷺泉(雅号) |
職業 | 王族 貴族 実業家 |
肩書き | 貴族院 男爵議員(1904 - 1915) 琉球新報 創設者 沖縄銀行 創設者 沖縄広運 創設者 桃原農園 創設者 |
配偶者 | 真子(伊是名朝睦長女) |
親 | 尚泰王 松川按司 |
栄誉 | 男爵 正五位、従四位 勲四等旭日小綬章 |
尚 順(しょう じゅん、1873年(明治6年)5月2日 - 1945年(昭和20年)6月16日)は、最後の琉球国王・尚泰王の四男。男爵で貴族院議員。琉球新報[1]、沖縄銀行[2]の創立者。
生涯
[編集]尚順は、明治6年(1873年)5月2日(旧暦4月6日)、尚泰王の第四王子として生まれた。母は松川按司。松山王子、松山御殿(まちやまうどぅん)と呼ばれた。雅号は鷺泉。室は真子(伊是名朝睦長女)。
琉球処分に伴い父と共に7歳で上京、明治25年(1892年)、20歳の時に兄の尚寅と共に帰郷した。その後、翌年の明治26年(1893年)、太田朝敷、護得久朝惟、豊見城盛和、高嶺朝教らと共に琉球新報を設立し、明治32年(1899年)には沖縄銀行を設立した。他にも沖縄広運の設立、桃原農園を設立しパイナップルなどの果樹、観賞用植物等を移入した。
1904年(明治37年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され[3][4]、1915年(大正4年)6月19日に辞職した[5]。
松山御殿は敷地約4千坪あり、家族16人、使用人20数名で暮らしていた。尚順には6人の男子と10人の女子がいたが、沖縄戦で本人、妻、長男一家、三男、四男、孫の尚忠昭、尚忠正が亡くなった。享年72。
栄典
[編集]- 1896年(明治29年)6月30日 - 男爵[6]
- 1902年(明治35年)6月20日 - 正五位[7]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 勲四等旭日小綬章[8]
- 1909年(明治42年)6月30日 - 従四位[9]
人物
[編集]趣味人としても知られ、名筆であったと言われる。建築家の伊東忠太、画家の藤田嗣治、民芸家の柳宗悦、陶芸家の河井寛次郎などとも交流があった。また美食家としても有名で、後年、「驚異の美食家」「グルメ男爵」などと呼ばれた。特に泡盛についての造詣が深く、彼の遺稿集でも泡盛について多くの言及を行っている。なお、同じ遺稿集で、「首里城明け渡し・人物群像」という題で、首里城明け渡しについて、当時6歳であった思い出、松田道之をみた思い出、その時の父尚泰の態度などを語っている[10]。
娘・根岸常子によれば、尚順は現在の国頭郡本部町伊豆味に、別荘を所有していたという[11]。
家訓
[編集]尚順の遺稿に加え、松山御殿の人々の著作や関連する文章を収録した書籍『松山御殿物語』によると尚順家の家訓は以下の5つである。
「 | 人一倍、勉強しなさい。 | 」 |
親族
[編集]家督は尚順の次男尚誠が継いだ。尚誠は弟(尚順の六男)尚詮に財産を管理するように頼み、尚詮は兄に代わり『松山御殿』の財産を管理した。その傍らで父の遺志を継ぎ、戦争で灰燼に帰した桃原桃園の復興に着手した。尚詮の妻は琉球大学名誉教授の尚弘子。尚誠の長男である尚厚(桃原農園社長)が、松山御殿の財産を引き継いでいる。尚誠の長女は、白光真宏会第二代会長の西園寺昌美。
『松山御殿の日々』を著した知名茂子は、尚順の六女。1917年生まれ。1938年に首里の旧家・知名家に嫁ぎ、台湾へ赴任。戦後帰沖し、三男一女を育てる。茂子によると、尚順は子供たちの教育方針として、「父は男爵だが、お前たちに身分はない。使用人は父の使用人で、お前たちの使用人ではない」と常日頃語っていたという。
脚注
[編集]- ^ 沖縄戦後に創刊し「うるま新報」を改題し琉球新報社が発行する現在の「琉球新報」とは別である。現在の琉球新報は尚順の関わった琉球新報の号数を加算した号数を表記している。
- ^ (日本の華族界における十五銀行(別名、華族銀行)に相当する銀行で、現在の沖縄銀行とは無関係
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、14頁。
- ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』74頁
- ^ 『官報』第866号、大正4年6月22日
- ^ 『官報』第3901号「授爵叙任及辞令」1896年7月1日
- ^ 『官報』第5688号「叙任及辞令」1902年6月21日
- ^ 『帝国議会会議録』「第24議会 - 貴族院 - 貴族院議員の異動」
- ^ 『帝国議会会議録』「第26議会 - 貴族院 - 貴族院議員の異動」
- ^ 山城善三『沖縄事始め・世相史事典』(月刊沖縄社、1983年)pp.92-93、なお、原本は昭和12年月刊琉球とある
- ^ 兒玉絵里子「組踊立方 二代目親泊興照(初代 親泊久玄)――芸と心」(『民族藝術』vol.30、2014年3月)
参考文献
[編集]- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』1990年。
- 知名茂子『松山御殿の日々』尚弘子監修、ボーダーインク、2010年。ISBN 978-4899821922
- 関連出版
- 『松山王子 尚順遺稿』尚順遺稿刊行会、1969年。山里永吉編、藤田嗣治らが寄稿。
- 『松山王子 尚順 全文集』金子豊編、榕樹書林、2013年。ISBN 978-4898051702
- 『松山御殿物語―明治・大正・昭和の松山御殿の記録』同 刊行会編、ボーダーインク、2002年。ISBN 4899820313
- 高木凛『大琉球料理帖』新潮社〈とんぼの本〉、2009年
関連項目
[編集]外部リンク
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爵位 | ||
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先代 叙爵 | 男爵 尚家(分家)初代 1886年 - 1945年 | 次代 尚誠 |