尾上九朗右衛門

ウィキペディアから無料の百科事典

重ね扇に
抱き柏
四ツ輪

尾上 九朗右衞門(おのえ くろうえもん、新字体:九朗右衛門)は、歌舞伎役者名跡屋号音羽屋定紋は重ね扇に抱き柏、替紋は四ツ輪。

解説

[編集]

「尾上九朗右衛門」の名跡は、江戸三座の一つ市村座の前身である山村座の二代目座元・村田九郎右衛門の名に由来する。村田九郎右衛門は承応元年 (1652年) に村山又三郎から座元を継ぐが、すぐにその興行権を市村宇左衛門に売却、その後間もなく死去した。そのため後に市村座では、この山村座の座元だった村山又三郎と村田九郎右衛門に初代と二代目の「市村宇左衛門」を追贈して、歴代の市村座座元に数えた(市村宇左衛門本人は三代目を名乗った)。そのため「村田九郎右衛門」にはいつしか市村姓を冠して「市村九郎右衛門」とみなすようにもなった。

それから200年近くも経った嘉永2年 (1849年)、十二代目市村羽左衛門三代目尾上菊五郎の次女の間に生まれたが初舞台を機に襲名したのがこの由緒ある「市村九郎右衛門」だった。その後彼は十三代目市村羽左衛門として市村座の座元を相続した後、今度は母方の大名跡を継承して五代目尾上菊五郎となり、九代目市川團十郎初代市川左團次とともにいわゆる團菊左の黄金時代を築いた。こうして五代目菊五郎が不世出の大看板となると、その初名だった「市村九郎右衛門」に今度は尾上姓を冠して「尾上九郎右衛門」とみなすようにもなったのである。

その五代目菊五郎の子、六代目菊五郎が自らの長男・右近が成人した際に示した名跡が、五代目の俳名だった「三朝」と、この「九郎右衛門」だった。右近は「九郎右衛門」を選んだが、字画占いに凝っていた六代目はその際「郎」では画数が悪くなるからとこれを「朗」に替えている。

尾上九朗右衛門代々

[編集]