山東直砥

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山東 直砥
1840年天保11年2月7日) - 1904年明治37年)2月14日
栗栖 一郎
諡号 三栗
生地 紀伊国
宗派 高野山真言宗
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山東 直砥(さんとう なおと、1840年天保11年2月7日) - 1904年明治37年)2月14日)は、高野山真言宗僧侶教育者紀伊国出身。曾孫は参議院議長を務めた山東昭子

生涯[編集]

紀伊国出身。和歌山藩士・栗栖儀平の長男として生まれ、幼名を一郎、後に直砥と改め、三栗と号した。元々は高野山真言宗僧侶であり、河野鉄兜に師事し、大坂に出て松本奎堂の双松岡塾で学んだ。1868年明治元年)に箱館府権判府事となり、1871年(明治4年)には神奈川県参事にとなる[1]。その後、東京で育英事業の北門義塾を創設した[2]

1904年明治37年)2月14日、死去。享年65。

脚注[編集]

  1. ^ 1969年,平凡社『明治東京逸聞史1』
  2. ^ 1989年,『福澤関係文書/(B』