山田宏臣

ウィキペディアから無料の百科事典

山田 宏臣(やまだ ひろおみ、1942年昭和17年〉3月4日 - 1981年昭和56年〉10月21日)は、日本陸上競技選手。元男子走幅跳日本記録保持者で、1964年東京オリンピック1968年メキシコシティーオリンピックに出場した。

人物

[編集]

オリンピックへ

[編集]
  • 幼少時から抜群の俊足で有名だった。のちに本格的に陸上競技に取り組んだが、その抜群の身体能力に指導者が指導の方針を見失ったという逸話がある。
  • 聖学院高等学校順天堂大学を経て、東京急行電鉄に所属。
  • 最初は走高跳の選手だった、人望があり大学4年時に陸上部の主将に推されたものの2mはおろか自分の身長も跳べない二流選手で、悶々とする日々を送っていたが、ある日遊びでやった幅跳びで軽く7mを跳んだ。それを見た当時の順天堂大学陸上競技部監督の帖佐寛章が山田の幅跳びへの適性を見抜く。
  • 山田を本格的に幅跳びに転向させたのは、愛知学芸大学(現・愛知教育大学)陸上競技部監督を務めていた竹内伸也であったという。順天堂大学と愛知学芸大学の合同合宿で山田に幅跳びをやるように説得する。それから2年足らずで東京オリンピック走幅跳代表を掴んだ。
  • 山田を指導したのは第11回夏季オリンピックベルリン大会走高跳代表だった朝隈善郎だったが、その朝隈に「いい素材がいますから指導して下さい」と山田の指導を依頼したのは帖佐である。この朝隈&山田の師弟による京都知恩院での石段トレーニングは、陸上競技界での伝説となっている。8mを跳べば五輪のメダルを狙える時代、山田への期待が高まれば高まるほど、知恩院の石段トレーニングは前近代的との批判を師弟とも浴びる事になった。しかし本堂から木魚の音が聞こえてくるような静謐な宗教的雰囲気の中で集中して練習できると感じていた山田は、最終的に批判に対しては開き直ったと回想している。石段ですれ違う僧侶は山田に合掌したという。
  • 1968年、メキシコオリンピックに陸上競技走幅跳日本代表選手として出場[1]
    メキシコ行きのジェット機の席番から何から、とにかく数字に絡むものはすべて8づくしにして(山田の8づくし)、何としても8メートルの意気込みで臨んだメキシコ五輪だったが、決勝試技1回目、8m20あたりまで伸ばした大ジャンプが僅かにファウルとなり結局2回目の7m93と自己ベストを更新するに留まった。メキシコ後は後輩に敗れる事も重なり引退をほのめかすようになり、山田はもう8mを跳べないという観測が大方をしめるようになった。実際朝隈コーチにその意思を伝えるが強く慰留されたのと、この時期会った日本記録保持者の南部忠平に「山田、朝隈を男にしてやれよ。」と言われ思い留まる。

日本初の8メートルジャンパー

[編集]
この記録は1931年10月27日に南部忠平がマークした7メートル98(追い風0.5m)の日本記録(当時の世界記録でもあった)を39年ぶりに更新する日本新記録であった。南部のマークした7メートル98という記録は非常に水準の高い記録であり、更新は難しいと見られていただけに、それを山田が更新したことは大きな話題となった。のちに南部がある地方の講演で山田のことを取り上げ、「私は金メダルは取ったが、8メートルは跳んでいないんです。跳べば私が日本の、そして世界でも初めて8メートルを跳んだジャンパーになれたかもしれません。それが悔やまれます。その夢を叶えたのが山田宏臣という選手です。皆さんわかりますか。金メダルを取ることよりも8メートルを跳ぶことがいかに難しく、そしてすごいことか」と手に巻尺を持ちながら熱く語ったというエピソードがある。
南部は山田の8m達成を聞いて『山田君なら8m20くらいは跳べる。』とコメントし尚激励したが、山田自身は急速に燃え尽き、以降は7m50もなかなか跳べなくなり、1972年ミュンヘンオリンピックの最終予選となった72年の日本選手権を最後に競技生活から退いた。まさに8mにすべてを賭けた競技人生だった。

その後の人生

[編集]

著書

[編集]
  • 『スポーツ馬鹿 地獄へのジャンプー「8m」』(講談社、1974)

評伝

[編集]

山田宏臣を演じた俳優

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ メキシコ五輪で金メダルをとったのは8m90の驚異的な記録を出したボブ・ビーモンであった。

関連項目

[編集]