山県長茂

ウィキペディアから無料の百科事典

 
山県長茂
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 永禄3年(1560年
死没 慶安3年3月23日1650年4月22日
別名 源右衛門、源右衛門尉
主君 吉川元長広家広正
氏族 源姓頼綱安芸山県氏
テンプレートを表示

山県 長茂(やまがた ながしげ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武士吉川氏の家臣。

吉川経家の最期を記した「山県長茂覚書」を遺した人物として著名である。

生涯[編集]

安芸国国人である安芸山県氏の出身。安芸国吉田で生まれ、11歳の時に新庄へと移り、吉川元長の家臣となった。天正9年(1581年)3月、吉川経家に従い鳥取城へと入城。同年秋まで籠城戦を続け、生還した。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後は周防国岩国へと移住、瀬田・柳井田を領して、引き続き吉川氏に仕えた。寛永21年(1644年11月11日付で、吉川経家の孫・正実に宛てて「山県長茂覚書」を記した。

慶安3年(1650年)、死去。

山県長茂覚書[編集]

寛永21年(1644年)11月11日付で、吉川正実に宛てて送られた覚書で、上月城の戦い宇喜多氏南条氏の裏切り、鳥取城の戦いの前後を記しており、全体で三十三条から成る。そのうちの多くが鳥取城の戦いの記述である。この鳥取城の戦いには山県長茂も参戦して籠城しており、今日伝わる吉川経家の最期の多くは、この山県長茂覚書からの出典となっている。

出典[編集]