岡部達
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おかべ たつ 岡部 達 | |
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プロフィール | |
出身地 | 日本統治下台湾 台北州台北市 (現: 中華民国 台北市) |
生年月日 | 1934年11月17日 |
没年月日 | 2022年8月26日(87歳没) |
最終学歴 | 早稲田大学教育学部 |
職歴 | ラジオ東京→TBSアナウンサー ほか |
活動期間 | 1957年 - 1986年、 1988年 - 1992年 |
ジャンル | スポーツ、音楽、報道・情報 |
出演番組・活動 | |
出演経歴 | スポーツ中継 『3時にあいましょう』 など |
その他 | 退職後は、TBSアナウンススクール特別講師などを務める。 |
岡部 達(おかべ たつ[1]、1934年11月17日[2][3] - 2022年8月26日)は、日本のアナウンサー。
日本統治時代の台湾台北州台北市出身[4]。ラジオ東京→TBS[注釈 1]で活動していた[3]。
経歴・人物
[編集]早稲田大学教育学部[5]を卒業して[6]1957年4月にラジオ東京(現・TBS)へアナウンサー5期生として入社(同期には青柳純一、金坂光春、仁村秀雄、山本文郎、麻生雅子、石川知子、大場ゆかり、草間範子、佐藤美智子、鈴木美江、須藤孝子、前田和子、町田教子[注釈 2]、三好和子)[8]。主にスポーツ実況(野球、ボクシング、フィギュア、ラグビー、アイスホッケー)やラジオDJを担当していた[9]。1963年11月1日に報道局運動部兼ニュース部アナウンサーとなる[10]。1967年11月15日にアナウンサー研修室設置に伴い報道局運動部兼アナウンサー研修室付[11]、1970年7月にラジオ本部アナウンス室兼テレビ本部報道運動部勤務の後[9]、1977年3月にラジオ本部アナウンス室(1983年6月29日にラジオ本部アナウンス部に組織変更[12])のみ所属となる[9]。近代オリンピックでは1964年(東京)と1972年(札幌)の二度にわたり実況を担当[6]。このうち、札幌の開会式ではテレビ中継を担当した[9]。ボクシング中継では、具志堅用高のWBA世界ジュニアフライ級(ライトフライ級)王座初挑戦の試合(対ファン・ホセ・グスマン)を担当[9]以来、13回目のタイトル防衛戦まで担当した(王座陥落の14回目は、平原晋太郎が担当[注釈 3])。1986年5月に秘書室へ異動[9]しアナウンス職から離れる。
1988年2月のテレビ本部社会情報局異動[9]後は、4月から1992年3月までの4年間城戸真亜子と共にワイドショー番組『3時にあいましょう』のメインキャスターを務めた。
1992年6月にテレビ総局ネットワーク局JNNネットワーク協議会事務局へ異動[9]後、1994年11月にTBSを定年退職[9]。定年退職後は、短期大学講師やTBSアナウンススクール特別講師を務める[6]。
2022年8月26日、前立腺がんのため、死去[14]。87歳没。8月29日、告別式が営まれた[15]。
家系
[編集]安川敬一郎の叔父である福岡藩士・儒者の岡部榴園は祖父である。[16]
詳細情報
[編集]出演番組
[編集]スポーツ中継
[編集]- プロ野球中継(テレビ中継・ラジオ中継『TBSエキサイトナイター』)[6]
- ボクシング中継(『東洋チャンピオンスカウト』など)[9]
- WBA世界ライトフライ級タイトルマッチ
- 世界フィギュアスケート選手権大会(テレビ)[6]
- アイスホッケー中継[9]
- マラソン中継[6]
- レスリング中継[6]
スポーツ中継以外
[編集]- ラジオ
- 若い目のパリ(1961年)[9]
- 今週のベストテン(1963年)[9]
- フェザー・シルバー・タイム(1963年)[9]
- パーソナル・ダイヤル(1967年)[9]
- ミュージックパトロール(1970年)[9]
- ミュージック・オン・ステージ(1974年)[9]
- テレビ
- スポーツデスク(1975年 - 1976年。1975年4月5日より土曜日に放送していたスポーツ番組。1978年開始のスポーツニュース『JNNスポーツデスク』とは別番組)[9]
- 3時にあいましょう(1988年4月 - 1992年3月)
- オールスター感謝祭
出演映画
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 1960年11月29日より、東京放送へ社名変更。2001年10月にラジオ部門がTBSラジオ&コミュニケーションズ(現・TBSラジオ)へ、2009年4月にテレビ部門がTBSテレビへそれぞれ分離され、放送持株会社「東京放送ホールディングス(TBSHD、現・TBSホールディングス)」となった。
- ^ 町田教子は立教大学在籍中に1956年5月嘱託採用、編成局嘱託アナウンサー。大学卒業後に、社員採用されて5期生アナウンサーとなる。『TBSアナウンサーの動き』では、社員採用を1957年5月としている。[7]
- ^ 14回目は、当時岡部のみが担当していたフィギュアスケート中継の日程とぶつかったため担当できなかった[13]。『TBSアナウンサーの動き』にある岡部の活動記録には、「具志堅用高の世界Jフライ級チャンピオン初挑戦以来、タイトル防衛戦すべて放送」という記述が見られるがすべて担当していたわけではない。[9]
出典
[編集]- ^ 「TBS東京放送アナウンサーの横顔」『国内放送局ハンドブック東日本篇'81年版』三才ブックス、1981年、90頁。「読み おかべ たつ」と記載。
- ^ 「TBS東京放送アナウンサーの横顔」『国内放送局ハンドブック東日本篇'81年版』三才ブックス、1981年、95頁。「生年月日 1934年11月17日」と記述。
- ^ a b c 野村宏平、冬門稔弐「11月17日」『ゴジラ365日』洋泉社〈映画秘宝COLLECTION〉、2016年11月23日、326頁。ISBN 978-4-8003-1074-3。
- ^ 「TBS東京放送アナウンサーの横顔」『国内放送局ハンドブック東日本篇'81年版』三才ブックス、1981年、95頁。「出身地 台北市」と記述。
- ^ 「TBS東京放送アナウンサーの横顔」『国内放送局ハンドブック東日本篇'81年版』三才ブックス、1981年、95頁。「出身校 早稲田大学教育学部」と記述。
- ^ a b c d e f g 外部リンク(TBSアナウンススクール講師一覧)
- ^ 東京放送 編「TBSアナウンサーの動き」『TBS50年史 付属資料・ハイブリッド検索編』(DVD-ROM & PDF)東京放送、2002年1月、9頁。「56.5 <嘱託採用>3人 編成局嘱託 榎本 和恵…日本大学芸術部卒業。「女性テレビノート」 〜 <56.10 退社>〜ラジオ東京放送劇団 町田 教子…立教大学在籍中、1955年KR「かなりやゲーム」「歌くらべ学校めぐり」の司会など TV「ホモちゃんの天気予報」 〜 (57.5 社員採用) 松浦 淑恵…JOKK劇団〜山陽放送。「女性テレビノート」 〜 <56.10 退社>〜ラジオ東京放送劇団」
- ^ 東京放送 編「TBSアナウンサーの動き」『TBS50年史 付属資料・ハイブリッド検索編』(DVD-ROM & PDF)東京放送、2002年1月、9-11頁。「57.4 <5期生>15人入社(男5・女10) 応募2600人 青柳 純一 岡部 達 金坂 光春 仁村 秀雄 山本 文郎 麻生 雅子 石川 知子 大場ゆかり 草間 範子 佐藤美智子 鈴木 美江 須藤 孝子 前田 和子 町田 教子 三好 和子」
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 東京放送 編「TBSアナウンサーの動き」『TBS50年史 付属資料・ハイブリッド検索編』(DVD-ROM & PDF)東京放送、2002年1月、9-10頁。「岡部 達…[63.11 報道局運動部兼ニュース部][67.11 報道部運動部兼アナウンサー研修室付][70.7R本部アナウンス室兼TV本部報道局運動部][77.3 R本部アナウンス室][83.6 R局アナウンス部][86.5 秘書室][88.2 TV本部社会情報局][92.6TV総局ネットワーク局JNNネットワーク協議会事務局][94.11 定年] 『DJ、スポーツ中継(野球、ボクシング、フィギュア、ラグビー、アイスホッケー)』 R「若い目のパリ(61)」「今週のベストテン(63)」「フェザー・シルバー・タイム(63)」「パーソナル・ダイヤル(67)」「ミュージックパトロール(70)」「ミュージック・オン・ステージ(74)」 TV「スポーツデスク('75〜'76)」「3時にあいましょう(88)」 ☆72.2.3 「札幌オリンピック」開会式テレビ担当。 ☆具志堅用高の世界Jフライ級チャンピオン初挑戦以来、タイトル防衛戦すべて放送。」
- ^ 東京放送 編「TBSアナウンサーの動き」『TBS50年史 付属資料・ハイブリッド検索編』(DVD-ROM & PDF)東京放送、2002年1月、16頁。「1963年11月1日 『報道局への大量異動』 ◇運動部兼ニュース部へ異動 渡辺謙太郎、吉川久夫、岡部 達、池田孝一郎、石井 智、藤田和弘、山田二郎、新村尚久」
- ^ 東京放送 編「TBSアナウンサーの動き」『TBS50年史 付属資料・ハイブリッド検索編』東京放送、2002年1月、22-23頁。「1967年11月15日 『アナウンサー研修室』設置 <報道局運動部勤務者兼アナウンサー研修室付> 岡部 達、池田孝一郎、石井 智、藤田和弘、山田二郎、新村尚久、石川 顕、平原晋太郎」
- ^ 東京放送 編「TBSアナウンサーの動き」『TBS50年史 付属資料・ハイブリッド検索編』東京放送、2002年1月、28頁。「1983年6月29日 『組織変更』ラジオ本部アナウンス室を『ラジオ本部アナウンス部』とする。」
- ^ 『炎の声』、p.12に掲載された岡部の発言より。
- ^ 元TBSアナ岡部達さん死去、87歳 具志堅用高氏涙「防衛戦は13回、全て岡部さんが実況」 - 日刊スポーツ 2022年8月29日
- ^ “元TBSアナ 岡部達さん死去、87歳 具志堅用高V13全て実況、昼番組司会で“マダムキラー””. Sponichi Annex (2022年8月30日). 2022年8月30日閲覧。
- ^ 安川家とその累世之墓 - 藤野義一 2021年8月9日
参考文献
[編集]- 「TBS東京放送アナウンサーの横顔」『国内放送局ハンドブック東日本篇'81年版』三才ブックス、1981年。
- TBS50年史(2002年1月、東京放送編・発行)…国立国会図書館の所蔵情報
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 講師担当当時のTBSアナウンススクール講師一覧(プロフィールあり) - インターネットアーカイブ2009年5月25日付保存キャッシュより