平盛綱 (三郎兵衛尉)

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平盛綱
時代 平安時代末期−鎌倉時代中期
生誕 不詳
死没 不詳
改名 盛綱→盛阿(法名)[1]
別名 盛国、通称:三郎、平三郎兵衛尉、平三郎左衛門尉[1]
官位 左衛門尉
幕府 鎌倉幕府侍所所司
主君 北条時政義時泰時経時時頼長時政村時宗
氏族 平姓長崎氏
父母 平資盛?(『尊卑分脉』)
兄弟 盛綱高盛国盛盛国実忠親真?
時綱盛時光盛貞綱照光
養子∶頼綱[2] 
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平 盛綱(たいら の もりつな)は、鎌倉時代初期の武士鎌倉幕府侍所所司で執権北条氏家令御内人の有力氏族であった長崎氏の祖。

経歴[編集]

尊卑分脉』では平資盛の子、『系図纂要』「平朝臣姓 関一流」ではその曾孫で、平姓関氏の祖・関実忠を盛綱の兄弟としている[3]。「盛」は平家の通り字で「綱」は偏諱と考えられる。[誰?]

承久3年(1221年)の承久の乱北条泰時に従って上洛した18騎[注釈 1]のうちの一人として、兄弟とされる平実忠(関実忠)とともに『吾妻鏡』に登場するのが盛綱の史料上の初出である[1]兵衛尉という官位名で登場しており、この時点で既に高い地位であったと考えられている。その後「安芸国巡検使」として安芸国に赴き、乱における死傷者や功名を調査して交名を提出した[4][5]貞応3年2月(1224年3月)には尾藤景綱とともに泰時の使者を務め、閏7月3日8月19日)の伊賀氏事件の処分を決める際にはその記録をとり、8月28日10月12日)には家令となった景綱とともに北条氏の家法である「家務条々」の制定を行うなど、文筆に長けた泰時の被官として活躍した[6]。「御成敗式目」を制定する際には奉行(指揮者)を務めた。

文暦元年(1234年)頃には、京都大番役勤仕の報告先となっており、歴史学者の森幸夫細川重男は盛綱が侍所の所司となっていたと見ている[6]。またこの年には、景綱の跡を継いで家令の地位に就いた[7]

仁治3年(1242年)に出家して隠退。法名は盛阿。建長元年(1249年)頃まではその活動が確認できる[7]。細川重男は建長2年の「建長帳」に「平右(左)衛門尉入道跡」とあることから、この頃には盛綱が死去していたと見ている[7]。一方、梶川貴子弘長3年(1263年)の宗尊親王上洛の際、生存している盛綱の子が随行しているような記録があるとして、この頃まで生存していたと見ている[7]

平禅門の乱で著名な内管領平頼綱は、『系図纂要』では子であるとされているが、実際には孫であろうと見られている[8]。また鎌倉幕府末期の実力者・長崎円喜は曾孫であろうとされる。盛綱についても近年では、森幸夫が北条時政義時父子が平氏出身者を推挙していることから盛綱は資盛の子であるとしている一方で、細川重男は系譜がはっきりしない義時の「年来の郎従」である「主達」出身であるという説を唱えている[1]。梶川貴子は、得宗被官の中でも南条氏・長崎氏は主達出身とする研究もあったが、南条氏は『吾妻鏡』 によって頼朝の時代から御家人であったことが確認できるため主達ではなく、出自について様々に議論が分かれている長崎氏についても得宗被官としての活動内容から明かに御家人身分の一族であるとの見解を示している。

関連作品[編集]

テレビドラマ

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 『吾妻鏡』に記載される18騎は、北条時氏(泰時長男)、北条有時(義時四男)、北条実義(義時六男)、尾藤景綱(左近将監)、関実忠(判官代)、平盛綱(兵衛尉)、南条時員、安東藤内(左衛門尉)、伊具盛重、武村次郎(兵衛尉)、佐久間家盛、葛山小次郎、勅使河原則直横溝資重、安藤左近将監、塩河中務丞、内島忠俊に泰時を加えた18騎。

出典[編集]

  1. ^ a b c d 梶川貴子 2018, p. 110.
  2. ^ 梶川貴子 2018, p. 112-115.
  3. ^ 梶川貴子 2018, p. 108-110.
  4. ^ 梶川貴子 2018, p. 110-111.
  5. ^ 鎌倉遺文』3066、同5652
  6. ^ a b 梶川貴子 2018, p. 111.
  7. ^ a b c d 梶川貴子 2018, p. 112.
  8. ^ 梶川貴子 2018, p. 113.

参考文献[編集]

  • 梶川貴子「得宗被官平氏の系譜 ―盛綱から頼綱まで―」『東洋哲学研究所紀要』第34巻、東洋哲学研究所、2018年。