広瀬栄一
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広瀬 栄一 | |
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陸上自衛隊第12師団長当時の広瀬栄一 | |
生誕 | 1911年1月23日 |
死没 | 1988年5月1日(77歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 陸上自衛隊 |
軍歴 | 1931 - 1945(日本陸軍) 1951 - 1952(予備隊) 1952 - 1954(保安隊) 1954 - 1968(陸自) |
最終階級 | 陸軍中佐 陸将 |
広瀬 栄一(ひろせ えいいち、1911年〈明治44年〉1月23日[1] - 1988年〈昭和63年〉5月1日[2])は、日本の陸軍軍人、陸上自衛官。最終階級は陸軍中佐、陸将。
経歴
[編集]香川県出身[1]。旧制高松中学(現・香川県立高松高等学校)、広島陸軍幼年学校、陸軍予科士官学校を経て[1]、1931年(昭和6年)7月、陸軍士官学校(43期)を卒業[1]、同年10月、陸軍少尉任官、1938年(昭和13年)5月、陸軍大学校(50期)を卒業。砲兵畑を進む。
第二次世界大戦中、日本とフィンランドの間では暗号解読等の対ソ連情報協力が行われていた。 広瀬は在フィンランド公使館付武官輔佐官(当時の階級は中佐)として暗号解読に尽力した[3]。
1946年(昭和21年)1月、巣鴨プリズン収監。当時の肩書は陸軍次官秘書官。
戦後は警察予備隊に入隊し、情報教育部門(調査学校の前身)の立ち上げを主導した[4]。警察予備隊が保安隊を経て、陸上自衛隊に改編し、陸上自衛官となる。
1960年(昭和35年)、広瀬(当時の肩書は陸幕2部長)がハワイの太平洋陸軍情報部長を訪問し、第1回の日米情報会議が執り行われた[5]。その後、陸上自衛隊富士学校長兼富士駐とん地司令、第12師団長、北部方面総監等の要職を歴任し、1968年(昭和43年)3月16日、陸将で退官[1]。
1980年(昭和55年)、ソ連のスパイによる諜報事件である宮永スパイ事件における裁判では、特別弁護人を務めた。その際の肩書には「元情報士官」、「元陸将」とあった[6]。
1983年(昭和58年)から死去するまで日本郷友連盟会長を務めた[1]。
栄典
[編集]- 勲二等瑞宝章 - 1981年(昭和56年)4月29日[8]
著作
[編集]- 『自衛隊幹部OB100人の防衛直言』(1983年1月 日本工業新聞社 ISBN 4-8191-0580-9) 監修
脚注
[編集]- ^ a b c d e f 『日本陸海軍総合事典』第2版、134頁。
- ^ 『「現代物故者事典」総索引 : 昭和元年~平成23年 1 (政治・経済・社会篇)』1047頁。
- ^ “戦史秘話 第七話「知られざる日本・フィンランド軍事関係史 -75年ぶりの武官着任-」(2020年11月)”. 防衛研究所. 2023年1月10日閲覧。
- ^ “「金大中拉致事件」に関与した吉田茂が創設した自衛隊「影の部隊」とは?”. アエラドット. 朝日新聞 (2018年8月13日). 2023年1月10日閲覧。
- ^ “自衛隊の諜報機関「陸幕別班」-在日米軍とのもう1つの密約” (PDF). インテリジェンス研究会 (2016年12月10日). 2023年1月10日閲覧。
- ^ 野口裕之「宮永スパイ事件の深層」(2006):202ページ
- ^ 『官報』本紙第18380号(昭和63年6月1日)
- ^ 『官報』号外第35号(昭和56年5月8日)
参考文献
[編集]- 野口裕之 「宮永スパイ事件の深層」『ワールド・インテリジェンス』、ジャパン・ミリタリー・レビュー、2006年。
- 『「現代物故者事典」総索引 : 昭和元年~平成23年 1 (政治・経済・社会篇)』日外アソシエーツ株式会社、2012年。
- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。