建部政賢

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建部政賢
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 延享4年9月26日1747年10月29日
死没 文政元年5月24日1818年6月27日
改名 留之助、政賢
墓所 京都市北区紫野の大徳寺芳春院
官位 従五位下内匠頭
幕府 江戸幕府
主君 徳川家治家斉
播磨林田藩
氏族 建部氏
父母 父:建部政民、母:板倉重同
養父:建部長教
兄弟 長教政賢米津政崇正室、板倉勝該正室、本多政寛正室、本多紀智正室、大嶋義勝室ら
真田信安の娘
光平政醇政儀、八重、松平康任養女ら
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建部 政賢(たけべ まさかた)は、江戸時代中期から後期にかけての大名播磨林田藩の第7代藩主。官位従五位下内匠頭

略歴[編集]

第5代藩主・建部政民の四男として誕生した。幼名は留之助。

明和元年(1764年)、兄で先代藩主の長教が死去したため、その養嗣子として跡を継いだ。同年11月13日に叙任する。

藩政においては生田維直小島省吾らを用いて藩校敬業館を創設して藩士子弟の教育化に努めた。天明7年(1787年)6月、参勤交代中に留守の藩内で、天明の大飢饉による物価変動などを理由にして百姓一揆が起こった。一揆が大規模だったため、他の藩の援助を得てようやく鎮圧している。

文化9年(1812年)9月、四男の政醇に家督を譲って隠居し、文政元年(1818年)5月24日に72歳で死去した。墓所は京都市北区紫野の大徳寺芳春院

系譜[編集]