張霊甫
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張霊甫 | |
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プロフィール | |
出生: | 1903年(清光緒29年)8月20日[要出典] |
死去: | 1947年(民国36年)5月16日 中華民国山東省孟良崮 |
出身地: | 清陝西省西安府東大村 |
職業: | 軍人 |
各種表記 | |
繁体字: | 張靈甫 |
簡体字: | 张灵甫 |
拼音: | Zhāng Língfǔ |
ラテン字: | Chang Ling-fu |
和名表記: | ちょう れいほ |
発音転記: | ジャン リンフー |
張 霊甫(ちょう れいほ、1903年8月20日 - 1947年5月16日)は、中華民国の軍人。階級は国民革命軍中将。 中国国民党五大主力のNo.1と呼ばれる国民革命軍第74師の師長を務めた。名は鐘麟だが、字の霊甫で知られる。
生涯
[編集]中学時代は書道の天才で、于右任も絶賛したという。1924年(民国13年)、北京大学歴史系に入学し、1925年(民国14年)には黄埔軍官学校に入学した。そこで第4期歩兵科学生となり、1926年(民国15年)には北伐に参加して、国民革命軍の排長、連長、営長、団長を歴任した。しかし1936年(民国25年)、自分の妻を猜疑して銃殺したため、南京模範監獄に投獄される。
1937年(民国26年)に日中戦争が勃発すると、王耀武が張霊甫の才能を見て、「日本軍が目前に迫っている、彼に今一度挽回の機会を与えてはどうか」と蔣介石に進言すると、張はすぐに旧部隊に戻って軍功を挙げ、淞滬戦場(八一三事変、日本でいう第二次上海事変)へと向かった。
1939年(民国28年)、武漢防衛戦中の万家嶺戦役で第74軍が日本軍に攻撃した際には、張霊甫は自ら突撃隊を組織し張古山を占領、日本軍第106師団に大打撃を与えた。同年3月には、南昌会戦に参戦し、右腿に被弾し重傷を負ってしまう。しかし、そのまま湘贛会戦に参戦し、旅長、副師長、師長、第74軍副軍長を歴任した。
1943年(民国32年)、常徳の戦いでは、張霊甫は自ら突撃隊を率いて常徳に攻め入り日本軍を殲滅した。蔣介石は“模範軍人”として誉め称えた。1945年(民国34年)4月には湖南芷江防衛戦(雪峰山戦役)で大勝し、「常勝将軍」と呼ばれるようになる。同年、軍功により三等宝鼎勲章を授与され、軍縮後に第74師中将師長に任命された。
1947年(民国36年)、張霊甫率いる第74師は、国共内戦中において山東方面の戦線に投入され、5月11日から「孟良崮の戦い」を繰り広げる。中国人民解放軍華東野戦軍と対峙した張霊甫は、自軍を囮として人民解放軍9個縦隊20万人に包囲させ、更にその外側から40万の国民革命軍に人民解放軍を包囲させた。
第74師が人民解放軍の攻撃を受け、戦闘が開始されたが、外部の国民革命軍は人民解放軍の反撃に苦戦する。まず、内部で権力闘争が起きていた李天霞の国民革命軍第83師は支援に消極的で、熊笑三率いる国民革命軍第5軍は宋時輪率いる人民解放軍第10縦隊の抵抗を受けて深く侵攻できず、さらに、黄百韜率いる国民革命軍第25師は王必成率いる人民解放軍第6縦隊の防衛線を突破しようがなかった。張霊甫率いる第74師も、擁していた大型兵器が孟良崮の地形に不適で、戦闘力を十分に発揮できなかった。
4日間の激戦の末、第74師は5月16日に全滅し、張霊甫は自殺した。享年45。[1]:318-319[2]
石碑
[編集]後に、指揮所であった山東省臨沂市に記念碑が建立された。碑文の揮毫は、台湾の馬英九である[3]。
出典
[編集]- ^ 中国第二历史档案馆, ed (1999). 《中华民国史档案资料汇编 第五辑 第三编 军事(二)》. 南京: 江苏古籍出版社. ISBN 9787806432280. "是时整七四师负伤官兵,复有陆续来归者,综合该师第五一旅一五一团团长王奎昌、第五七旅一七〇团团长冯继异及其他官兵等先后口述……十六日拂晓后……迄午后六时,匪我相距咫尺,我张师长、蔡副师长等,皆于手毙匪徒后,以其最后之一弹,慷慨成仁。"
- ^ “國軍名將領張靈甫之死:謎霧重重的一出「羅生門」]” (2012年2月17日). 2013年10月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年11月16日閲覧。
- ^ “抗日戦争の名将の記念碑が破壊される―山東省臨沂市”. 中国ニュース新聞社. (2013年10月25日) 2013年10月26日閲覧。