志澤

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株式会社志澤[1]
種類 株式会社[1]
市場情報 非上場
本社所在地 日本の旗 日本
神奈川県小田原市栄町1-5-10[1]
設立 1949年昭和24年)7月13日[1]
業種 小売業
事業内容 百貨店の運営[1]
資本金 120万円[1]

6億480万円[1]
売上高 152億8007万円(1975年(昭和50年)3月期)[2]

71億3600万円(1980年(昭和55年)2月期)[3]
営業利益 -2億6902万円(1975年(昭和50年)3月期)[2]

2億3100万円(1980年(昭和55年)2月期)[3]
純資産 3億9534万円(1975年(昭和50年)3月期)[2]
総資産 99億7688万円(1975年(昭和50年)3月期)[2]
従業員数 237[3]
決算期 3月[1]

2月[1][3]
主要株主 西武百貨店[4]、志沢直信[4]
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志澤小田原本店[5]
店舗概要
所在地 神奈川県小田原市栄町1-5-10[6]
開業日 1968年昭和43年)9月[1][7]
閉業日 1998年平成10年)8月閉店[8][9]
商業施設面積 7,599 m²[1]
営業時間 10:00-18:00[5]
最寄駅 JR東海道線小田急電鉄小田原線箱根登山鉄道伊豆箱根鉄道大雄山線小田原駅
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志澤平塚店
店舗概要
所在地 神奈川県平塚市紅谷町3-16[10]
延床面積 6,182 m²[5]
商業施設面積 4,733 m²[5]
営業時間 10:00-18:00[5]
最寄駅 JR東海道線平塚駅
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志澤(しざわ)は、小田原市に本拠を置き、神奈川県南西部で店舗展開していた地方百貨店。

「入船」を屋号としており[11]、「入船志澤」との別名もあった[12][13]

1980年(昭和55年)8月1日に「緑屋」と合併して「西武クレジット」となった[14]

歴史・概要[編集]

創業から戦後の復活へ[編集]

志澤宏一が1933年昭和8年)に[15]日本橋富沢町14で「入船」の屋号で[16]京呉服問屋「志澤商店」を創業したのが始まりである[11]

第2次世界大戦中の統制に伴って閉店し[11]1942年(昭和17年)4月6日に設立された「株式会社 辻新」の構成員として参画した[17]。 その後「株式会社 辻新」も解散となり[11]、小田原に疎開した[18]

志澤宏一が1947年(昭和22年)11月に小田原市緑町[19]「志澤呉服店」(初代・小田原店)を創業し[20]1949年昭和24年)7月13日[19]資本金120万円で「株式会社志澤」を設立した[21]

大型店の出店と多店化[編集]

1956年(昭和31年)5月に資本金480万円に増資し[21]、同年11月に地下1階・地上3階建て・延べ床面積1,782m2の店舗(2代目・小田原店)を新築し[15]、1階が呉服・寝具売り場で2階が服地・洋品売り場[21]、3階が食堂・遊技場・催事場の売り場構成で営業していた[21]1959年(昭和34年)5月に4階を増築して延べ床面積2,129m2へ増床した[15]

1963年(昭和38年)11月に平塚市新宿南仲通1130に地下1階・地上7階建て店舗を新築し[18]、6,032m2[15]百貨店を開業した[18]

1968年(昭和43年)9月に小田原市栄町1-5-10に(3代目)小田原本店を開店し、1972年(昭和47年)2月に厚木店を開店した[1]

伊勢丹が中核の「十一店会」に加盟していた[22]

1974年(昭和49年)3月29日に藤沢店が開店した[23]

西武との提携から閉店・消滅へ[編集]

1975年(昭和50年)8月に西武百貨店と提携し[24]、西武百貨店が30%を出資した[25]。 これに伴ってADOとの提携を解消し[26]西武百貨店が主催する「日本百貨店経営協議会」に加入した[27]

そして、戦後いち早く商業集積が形成されたことから一時は湘南地方一帯を対象として商圏人口約60万人とされていた平塚の商圏が近隣都市の商業の発展に伴って約35万人に減少したことから、1975年(昭和50年)10月に平塚店を閉店した[28]

さらに、1977年(昭和52年)4月には不採算店となっていた厚木店を閉店した[1]

また、1978年(昭和53年)3月に藤沢店を西友ストアーに移管し[24]9月15日に「藤沢西武」として新装開店した[29][30]

1980年(昭和55年)8月1日に「緑屋」と合併して「西武クレジット」(後のクレディセゾン)となり[14]、小田原店は1983年(昭和58年)に西武百貨店へ業務委託されて「志澤西武」となって[9]1991年度に売上高約120億円を上げた[9]

ところが、バブル崩壊などの影響も受けて1997年(平成9年)度には売上高が約60億円までに減少したことから[9]西武百貨店クレディセゾンに契約解除を申し入れて[8]1998年平成10年)8月に閉店することになった[8][9]

また、その間の1997年(平成9年)1月に藤沢西武も閉店しており[8]、小田原店の閉店により当社が運営していた店舗は全て閉店となった。

年表[編集]

かつて存在した店舗[編集]

「入船」の屋号の[16]京呉服問屋[11]
地下1階・地上3階建て・延べ床面積1,782m2[15] → 地下1階・地上4階建て・延べ床面積2,129m2[15]
売場面積約7,599m2[1]
1983年(昭和58年)に西武百貨店へ業務委託されて「志澤西武」となった[9]
跡地は、小田原お堀端 万葉の湯が建設された。[要出典]
地下1階・地上7階建て[18]、売場面積6,032m2[15]
敷地面積1,870m2[33]、延べ床面積9,156m2、売り場面積約4,107m2[34]
敷地面積約2,200m2[36]、地下2階・地上8階建て[35]、売場面積13,392m2[23]
1978年(昭和53年)3月に西友ストアーに移管し[24]、同年9月15日に"藤沢西武"として新装開店し[29]西友百貨店事業部が運営した[36]。藤沢西武は1991年(平成3年)度に売上高約122億円を上げたが、バブル崩壊などの影響も受けて1995年(平成7年)度には売上高が約96億円までに減少したことから1997年(平成9年)1月に閉店した[8]
店舗跡の土地建物の譲渡先が見つからなかったことから、建物は解体されることになった[8]解体後の同敷地に東京スター銀行などが入居するマンション併設の「クリオ藤沢駅前ビル」が建てられた。[要出典]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 『流通会社年鑑 1978年版』 日本経済新聞社、1977年10月25日。 pp92
  2. ^ a b c d “「革新」にめざめるか地方百貨店”. ヤノニュース 1975年10月5日号 (矢野経済研究所) (1975年10月5日).pp16
  3. ^ a b c d 船橋一 “社名変更で攻勢に転じる"名門"緑屋の思惑 「西武クレジット」は何を狙うか”. 月刊経済 1980年5年号 (月刊経済社) (1980年5月1日).pp88
  4. ^ a b 『流通会社年鑑 1978年版』 日本経済新聞社、1977年10月25日。 pp93
  5. ^ a b c d e 『デパート・ニューズ調査年鑑 1967年度版』 デパート・ニューズ社、1967年4月30日。pp276
  6. ^ 日本商業年鑑 1972年版, 商業界, (1972), pp. 500 
  7. ^ 小田原市史 通史編 近現代, 小田原市, (2001-03-28), pp. 765 
  8. ^ a b c d e f g h i j 松本努“神奈川県リポート(229)県内の郊外都市で百貨店の閉店続出”. SERI monthly 1998年7月号 (静岡経済研究所) (1998年7月).pp38
  9. ^ a b c d e f g h i 「志沢百貨店が8月閉店 しにせ 看板守れず 小田原」『神奈川新聞』1998年4月4日朝刊、23面(神奈川新聞社
  10. ^ a b 『帝国銀行・会社要録 第51版』 帝国興信所、1970年。pp神奈川50
  11. ^ a b c d e f g 『日本人事興信録 全国篇 第7版』 国際探偵社、1963年11月1日。pp366
  12. ^ “第3章 各地方委員会における「損害保険の月」広告活動実施状況と要望”. インシュアランス 1971年4月15日号 (保険研究所) (1971年4月15日).pp10
  13. ^ 黒須靖之 “マンモス都市東京の繁華街と湘南商圏”. 商業界 1970年9月号 (商業界) (1970年9月).pp176-185
  14. ^ a b c “西武クレジット 攻めの経営を積極展開”. 野田経済 1980年10月1日号 (野田経済研究所) (1980年10月1日).pp87
  15. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『日本繊維商社銘鑑 昭和39年版 上巻』 信用交換所大阪本社、1965年2月20日。pp1185
  16. ^ a b c d 『東京・横濱近縣職業別電話名簿 第26版』 日本商工通信社、1936年12月20日。pp252
  17. ^ 絹人絹企業整備中央委員会事務局 『絹人絹織物企業整備録』 日進社、1943年3月30日。pp20
  18. ^ a b c d e f g h 『繊維小売年鑑 1965年版』 繊維小売年鑑刊行会、1964年11月1日。pp715
  19. ^ a b c d 『全国繊維企業要覧 昭和43年版』 信用交換所大阪本社、1967年9月15日。pp941
  20. ^ a b c 『日本繊維商社銘鑑 1970年版』 東京信用交換所、1969年10月1日。pp770
  21. ^ a b c d e f 『日本纖維商社銘鑑 昭和34年版』 東京信用交換所、1959年3月10日。pp731
  22. ^ “代表的な共同仕入れ機構”. 動向 1964年4月1日号 (動向社) (1964年4月1日).pp4
  23. ^ a b c d “SC情報 開店情報”. ショッピングセンター 1974年7月号 (日本ショッピングセンター協会) (1974年7月1日).pp8
  24. ^ a b c d e f 建野堅誠 『日本スーパー発達史年表』 長崎県立国際経済大学論集 第23巻(別冊) (長崎県立国際経済大学学術研究会) (1990年3月)。pp85
  25. ^ a b “(1)西武百貨店、その知られざる"陰の部分" 上場断念(?)の背景とグループ戦略の新しい課題”. ヤノニュース 1977年12月15日号 (矢野経済研究所) (1977年12月15日).pp11
  26. ^ 田口冬樹 “小売構造とスーパー・チェーンの経営戦略(下)”. 専修大学経営研究所報 第44号 (専修大学経営研究所) (1981年3月31日).pp30
  27. ^ 教育社新書 産業界シリーズ「百貨店業界」、リブロポート「セゾンの歴史」(1991年)
  28. ^ a b 『神奈川年鑑 昭和52年版』 神奈川新聞社、1976年12月10日。pp136
  29. ^ a b c “泣き笑い 流通過密都市 採算合うやら合わぬやら”. 週刊ダイヤモンド 1978年12月2日号 (ダイヤモンド社) (1978年12月2日).pp93-97
  30. ^ a b 佐野雅郎 “神奈川"第二次藤沢の乱"を目前に混迷深まる地元流通業界”. 激流 1979年1月号 (国際商業出版) (1979年1月).pp40-42
  31. ^ “婦人生活特選ミユーズプリント全国特約店名簿”. 婦人生活 1954年6月号 (同志社) (1954年6月1日).pp452
  32. ^ 『日本職員録 第14版 上』 人事興信所、1972年6月20日。ppし17
  33. ^ 高木勇夫 橋本真司 “土地利用と人口動態からみた厚木市の地域変容”. 日本大学文理学部自然科学研究所研究紀要 地理 第8号 (日本大学文理学部自然科学研究所) (1973年3月30日).pp86
  34. ^ “波乱つづく神奈川県下主要都市の現勢とゆくえ 群雄割拠から弱肉強食→再編成へ急ピッチ”. ヤノニュース 1975年8月5日号 (矢野経済研究所) (1975年8月5日).pp33
  35. ^ a b “直撃ルポ 流通戦争 食品小売流通の最前線「藤沢」乱立ストアのツケに振り回される食品問屋 その生々しく無謀な商戦の現実を浮きぼりにする”. 総合食品 1978年9月号 (総合食品研究所) (1978年9月).pp61
  36. ^ a b 「来年1月末 藤沢西武が撤退」『神奈川新聞』1996年9月16日朝刊、23面(神奈川新聞社

参考文献[編集]

  • 教育社新書 産業界シリーズ「百貨店業界」大和書房 神奈川県百科事典
  • 1974-1978 湘南毎日新聞, 読売新聞神奈川版他

関連項目[編集]

外部リンク[編集]