恩田文舟

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恩田 文舟(おんだ ぶんしゅう、文久元年10月6日1861年11月8日〉 - 没年不明)とは、明治時代画家

来歴[編集]

本名は恩田幹延、文舟と号す。『第二回内国絵画共進会 出品人略譜』(明治17年〈1884年〉刊行)によれば歌川芳延の門人、恩田定次郎という人物の息子で東京府浅草区浅草聖天町に住む。明治15年の内国絵画共進会に「人物」と「龍」、第二回内国絵画共進会に恩田文舟の名で「人物」と「虎」を出品している。没年は不明だが『新撰年中重宝記』(明治27年〈1894年〉刊行)の「古今書画人名便覧」には、「現今各派画家」に「宮城 恩田文舟」とあり、少なくともこの頃まで存命で宮城県に住んでいたのが知られる。なお明治6年(1873年)建立の一勇斎歌川先生墓表には「芳延社中」として「文延」の名がみられるが、これが同一人かといわれている。

参考文献[編集]