戸切地陣屋
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座標: 北緯41度51分15.2秒 東経140度37分9.8秒 / 北緯41.854222度 東経140.619389度 戸切地陣屋(へきりちじんや)は、北海道北斗市にあった陣屋。この項目では戸切地陣屋跡史跡公園についても記載している。「戸切地」はアイヌ語「peker-pet(ペケレ・ペッ、美しい(明るい)・川)」が語源といわれ、陣屋西側を流れる戸切地川の周辺地域を指す地名である[1]。
歴史
[編集]1855年(安政2年)の江戸幕府による北方防衛のための蝦夷地上知と、それに伴う函館平野一帯の警衛分担命令のために松前藩が構築した戊営(警衛拠点)である[1]。設計者は佐久間象山が開いた洋学塾「五月塾」に学んだ松前藩士の藤原重太(後の藤原主馬)で、日本で初めて星形堡塁構造(星型要塞)を採用した城郭である[1]。
四稜郭で6基の砲座が添えられる構造となっており[2]、郭内には17棟の建物跡があって120~160名の松前藩士らが生活していたと考えられている[2]。1868年(明治元年)の箱館戦争では、蝦夷地に上陸した旧幕府軍が進撃してきたため、10月23日に守備隊自らが火を放って撤退した[3]。
名称について、松前藩は公称として「戸切地陣屋」を用いた(『戸切地御陣屋心得書』や『戸切地御陣家 勤中御達書留』など)[1]。このほか俗称として「松前陣屋」(『アナタヒラ松前陣屋絵図面』や『蝦夷之夢』など)、「濁川(村)陣屋」(『峠下ヨリ戦争之記』)、「文月(村)陣屋」(『南柯紀行』や『蝦夷錦』)なども用いられた[1]。なお、幕府の文書には「穴平陣屋」とするものもわずかにあるが、現地名は「アナ・タ・ヒラ」(漢字表記の例では「穴太平」や「穴タ平」など)であり、これを「アナ・タイラ」のように分けるのは現地表記の誤読か誤謬またはその伝播とする指摘がある[1]。
1965年(昭和40年)に国の「史跡」指定では「松前藩戸切地陣屋跡」としている[4]。
戸切地陣屋跡史跡公園
[編集]戸切地陣屋跡史跡公園 | |
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分類 | 歴史公園[5] |
所在地 | |
面積 | 10.18ヘクタール[5] |
前身 | 松前藩戸切地陣屋 |
運営者 | 北斗市 |
駐車場 | 300台 |
アクセス | 函館江差自動車道北斗中央ICから車で約10分 |
戸切地陣屋跡史跡公園(へきりちじんやあとしせきこうえん)は、北海道北斗市にある公園。1977年(昭和52年)に町有地となり[6]、1979年(昭和54年)から国、道の補助を受けて環境整備を行い、2001年(平成13年)に完成した[7]。「日本の歴史公園100選」選定[8]。
毎年5月には『北斗陣屋桜まつり』が開かれる。
周辺
[編集]北海道道96号上磯峠下線から陣屋跡へ続く800mの桜のトンネルは、日露戦争勝利を祈念して函館の呉服商である岩船峯次郎が表御門跡から陣屋登り口までの道に桜を植樹したものである[9]。ソメイヨシノを中心にエゾヤマザクラ(オオヤマザクラ)、ヤエザクラ、珍しいジュウガツザクラ、ギョイコウもある[10]。
なお、新函館北斗駅の南口には真上から見た陣屋の形状を模した花壇が造営されている。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f 時田太一郎「「日本最初の星の城」松前藩戸切地陣屋における19世紀洋式軍学の実践-日本における「稜堡式城郭」の理解のために-」『北斗市郷土資料館 研究紀要』第1号、北斗市郷土資料館、2023年。
- ^ a b 松前藩戸切地陣屋跡.
- ^ 菊池明・伊東成郎編 編『戊辰戦争全史』 下、新人物往来社、1998年、205頁。ISBN 4-404-02573-4。
- ^ 松前藩戸切地陣屋跡 - 文化遺産オンライン(文化庁)
- ^ a b “北斗市の公園・緑地”. 北斗市. 2016年1月6日閲覧。
- ^ “昭和時代”. 北斗市歴史年表. 北斗市. 2016年1月7日閲覧。
- ^ “松前藩戸切地陣屋跡”. 渡島総合振興局. 2016年1月6日閲覧。
- ^ “日本の歴史公園100選の実施” (PDF). 国土交通省. 2016年1月6日閲覧。
- ^ “戸切地陣屋”. コトバンク. 2019年11月5日閲覧。
- ^ 松前藩戸切地陣屋跡 2008.
参考資料
[編集]- “松前藩戸切地陣屋跡”. 北斗市歴史年表. 北斗市. 2016年1月6日閲覧。
- “松前藩戸切地陣屋跡”. 北海道ファンマガジン. PNG Office (2008年3月13日). 2016年1月6日閲覧。