有子山城

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有子山城
兵庫県
有子山全景 山頂に石垣、左山麓に出石城。手前は出石川。
有子山全景
山頂に石垣、左山麓に出石城。手前は出石川
別名 有子城、高城
城郭構造 連郭式山城
天守構造 不明
築城主 山名祐豊
築城年 天正2年(1574年
主な城主 山名氏前野長康小出氏
廃城年 慶長9年(1604年
遺構 石垣、曲輪、堀切、竪堀、土橋
指定文化財 国の史跡
位置 北緯35度27分19.61秒 東経134度52分41.23秒 / 北緯35.4554472度 東経134.8781194度 / 35.4554472; 134.8781194
地図
有子山城の位置(兵庫県内)
有子山城
有子山城
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有子山城(ありこやまじょう)は、兵庫県豊岡市出石但馬国)にあった日本の城山城)。此隅山城跡と合わせて「山名氏城跡」として国の史跡に指定されている[1]

歴史[編集]

但馬守護所[編集]

天正2年(1574年)、山名祐豊が築城したとされる[2]。一時、六分一殿として知られた山名氏は元来此隅山城を居城としていたが、永禄12年(1569年)、織田信長配下の羽柴秀吉の攻撃を受け落城したため、有子山に城が築かれた[1]。 落城した此隅山が「子盗み」を連想させることから、別の名前であったこの城を「有り子」と名付けられたと言われる[要出典]。山名氏分家の鳥取城と同じく、山頂付近は天守(詰の城)とされ、山麓に平常時住まいする居館および郭(但馬守護所)が設けられた。 しかし、天正8年(1580年)、山名堯熙の時、再び羽柴秀吉の攻撃を受け、城は落城した。

織豊時代[編集]

以後、羽柴長秀青木秀以前野長康小出吉政が城主となる[2]。 関ヶ原の戦い後の慶長9年(1604年)、小出吉英が山麓の館および郭のみを出石城として建築し、山頂部分の有子山城を廃城にしたと幕府に届け出た[要出典]

現代[編集]

2017年平成29年)4月6日、出石城とともに続日本100名城(162番)に選定された[要出典]

歴代城主[編集]

脚注[編集]

出典[編集]

  1. ^ a b 山名氏城跡 | 但馬再発見、但馬検定公式サイト「ザ・たじま」但馬事典”. 公益財団法人 但馬ふるさとづくり協会. 2022年3月23日閲覧。
  2. ^ a b 今井 1999, p. 800.

参考文献[編集]

  • 今井林太郎(監修) 編『兵庫県の地名』平凡社日本歴史地名大系 第二九巻Ⅰ〉、1999年10月20日。ISBN 4582490603 

外部リンク[編集]

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