木下成太郎

ウィキペディアから無料の百科事典

木下成太郎

木下 成太郎(きのした しげたろう、1865年9月21日(慶応元年8月2日[1] - 1942年昭和17年)11月13日[2])は、日本実業家政治家衆議院議員

経歴

[編集]

但馬国豊岡藩家老木下弥八郎の長男として生まれる[1][3][4]。宝林義塾で漢学を修め、さらに大学予備門で学んだ[1][2][4]自由民権運動に加わり自由党に加入[3][4]1887年12月、保安条例により東京外三里に追放され、父が在住していた北海道室蘭に渡った[4]。その後、厚岸町に移り農業、農牧業を経営[4][注 1]。また、厚岸がヨードの原料である昆布の産地であったことから、ヨードの製造に着手し、1891年バラサン岬に製造所を設け、日本で初めてヨードの国産化に成功した[2][3][4][5]。厚岸町会議員、徴兵参事員、北海道会議員(2期、釧路支庁選出)、水産組合長、漁業組合取締役などを歴任し[2]、『厚岸新聞』や雑誌『蝦夷の燭』の創刊にも関わった[5]

1912年5月の第11回衆議院議員総選挙で北海道根室外三支庁管内から出馬し当選[2]。以後、第14回第16回から第20回第19回は繰上)までの総選挙で当選し、衆議院議員を通算七期務め、立憲政友会総務となる[2]。政友会では、大木遠吉と共に原敬を支え、北海道の開拓事業に関しても、大きな役割を果たした[5]。また、大東文化協会、帝国美術学校(現武蔵野美術大学)の創設に参画した[3]

天皇機関説に反対し美濃部達吉攻撃の先鋒となった[3]。一方、戦争の拡大には反対し、東條内閣の打倒を画策した[3]

晩年は札幌市や東京都に住み[6]1942年11月に死去。札幌の中島公園に本人の銅像と父弥八郎の顕彰碑がある[7]

著作

[編集]
  • 『大正政変を顧みて』木下成太郎、1914年。
  • 『東亜指導者養成機関としての大学設立に関する建議案説明』木下成太郎、1939年。

伝記

[編集]
  • 山下竜門『北海の太閤木下斗南』木下成太郎氏伝記刊行会、1935年。
  • 木下成太郎先生伝刊行会編『木下成太郎先生伝』木下成太郎先生伝刊行会、1967年。

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 古川隆久は、豊岡で生まれ育った以外の幕末の父の経歴を証明できず、木下自身についても厚岸定住以前は本人の回想談以外に裏付ける史料がないとし、確かなことは幕末に武士の子として生まれ、漢学を学び、20歳代中ごろに厚岸に定住したことである、とする(古川隆久『政治家の生き方』文春新書、2004年、144-145頁)。

出典

[編集]
  1. ^ a b c 『人事興信録』第4版、き16頁。
  2. ^ a b c d e f 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』204頁。
  3. ^ a b c d e f 『北海道歴史人物事典』120-121頁。
  4. ^ a b c d e f 『北海道人名辞書』第二版、158頁。
  5. ^ a b c 厚岸町の歴史物語 - 厚岸町
  6. ^ 『北海道樺太名士大鑑』増補2版、北日本出版、1935年、5頁
  7. ^ 中島公園33選②

参考文献

[編集]
  • 北海道新聞社編『北海道歴史人物事典』北海道新聞社、1993年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 金子信尚編『北海道人名辞書』第二版、北海民論社、1923年。
  • 人事興信所編『人事興信録』第4版、1915年。

外部リンク

[編集]